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東京高等裁判所 昭和42年(う)1046号 判決

本店所在地

東京都新宿区百人町三丁目二七七番地

栄大商事有限会社

右代表者代表取締役

李聖凡

旧本籍

朝鮮慶尚南道普州郡二班城面佳山里八三六番地

住居

山梨県甲府市丸の内三丁目五番五号

会社役員

李聖凡

昭和四年五月七日生

右被告人栄大商事有限会社および被告人李聖凡に対する各法人税法違反被告事件について、昭和四二年四月一日に甲府地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人会社ならびに被告人李からそれぞれ適法な控訴の申立があつたので、当裁判所は、事実の取調をしたうえ、つぎのとおり判決をする。

主文

本件各控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人両名の連帯負担とする。

理由

本件各控訴の趣意は被告人両名の弁護人小沢茂、同上田誠吉、同平井直行、同田代博之が連名で提出した控訴趣意書および控訴趣意補充書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は検事古谷菊次作成の答弁書に記載されたとおりであるから、いずれもこれを引用する。

控訴趣意第二点および控訴趣意補充書について。

(一)  原判決には法令適用の誤りないし罪刑法定主義の違反があるとの論旨について。

所論は、まず刑事事件である法人税法違反の事件においては、法人の所得の確定には損益計算法(すなわち当該事業年度の事業活動より生ずる益金と損金を発生原因においてそれぞれ具体的に把握し、その益金と損金とを具体的に計算し、その益金の総和からその損金の総和を控除してその差額をその事業年度の法人の所得として計算する方法)によるべきであり、税法上の行政処分である決定ないし更正に用いられる推計計算である財産増減法(すなわち当該事業年度の当該法人の財産もしくは債務の増減の状況、収支の状況等によりその事業年度の所得金額を推計する方法)によることは許されないのに、原判決は被告会社の本件所得の確定について財産増減法によつているのであるから、原判決は法令の適用を誤まり、法律によらずして犯罪事実を認定したものというべく、罪刑法定主義に違反するものである、というのである。

しかしながら原判示事業年度当時の法人税法九条一項は、「内国法人の各事業年度の所得は各事業年度の総益金から総損金を控除した金額による」と規定し、総益金とは法令により別段の定めのあるもののほか資本の払込以外において純資産増加の原因となるべき一切の事実をいい、総損金とは法令により別段の定めのあるもののほか、資本の払戻または利益の処分以外において純資産減少の原因となるべき一切の事実をいうものと解すべきであるから、法人の各事業年度の所得を算定するにあたり、損益計算法によらず、財産増減法によることがいちがいに違法であるとはいえない。そして、本件においては、被告人会社および大栄興業株式会社の帳簿内容が不正確であるため損益計算法による所得の確定は不可能に近いほど困難であつたことは関係証拠に徹し明らかなのであるから、所得の確定に財産増減法によることはやむを得ないものであつたというべく、その推計の根拠となる各個の具体的事実は関係証拠により認められ、その推計は合理的な範囲に止まるものであつて、後記のように所論にかんがみ検討してみても、合理的な疑いをさしはさむ余地はないものと認められるから、本件において、財産増減法により対象事業年度の各法人所得を確定したことは相当であつて、これを租税法規の類推解釈ないし拡張解釈として排斥しなければならない根拠はなく、法律によらずして罪となる事実を認定した違法かつ不当なものであるとはいえない (なお、所論援用の大阪高等裁判所第六刑事部昭和四二年六月一六日の判決は、刑事事件において所得の確定にあたり財産増減法によるべきか、損益計算法によるべきかを直接論定したものではなく、特に刑事事件においては恣意的推計は許されないと述べているのであつて、その具体的内容は当該事件における鋼材の期末棚御の推計による評価方法に合理性がないことをいうに帰するのであつて、当裁判所の前記判断をなんら妨げるものではない。)これに反する弁護人の主張は独自の見解であつて採用しがたい。それゆえ論旨は理由がない。

(二)  経験法則、採証法則違反の論旨について。

所論は、原判決が、被告人会社および大栄興業株式会社の売上の一部を被告人が簿外にしたその簿外資産によつて各事業年度の実際の所得額と申告所得額との差額が形成されたものと認定しながら、その具体的な理由を判示することのできないことは、経験法則ないし採証法則に違反する、というのであるが、本件において、財産増減法によつたことが違法かつ不当であるといえないことはさきに述べたとおりであり、原判決に挙示する関係証拠(これが任意性特信性または信用性のないものといえないことは後記のとおりである)によれば、被告人李が売上の一部を除外する方法によって、別口に預金とし、簿外で不動産を取得し、公表不動産の価額の記帳を圧縮して得た簿外資産により、実際の所得額と申告所得額との差額を形成するに至つたこと、原判示の「罪となる事実」が十分認められるのであるから、その認定が経験法則ないし採証法則に違反しているとはいえず、原判決に理由不備の違法があるものではない。それゆえ論旨は理由がない。

控訴趣意第三点および第一点について。

論旨は、原判決は証拠の取捨判断を誤り事実を誤認した違法ないし審理不尽の違法があり、判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

そこで検討してみるのに、

(一)  所論は、まず、被告人李に対する大蔵事務官の各質問てん末書および検察官に対する各供述調書は、同被告人の当時の健康状態を無視した不当な取調により同被告人に虚偽迎合の供述をさせ、不当な誘導に基く供述をさせたもので、任意性信用性を欠き、また、李漢成、薗田和江に対する検察官の各供述調書も不当な拘束による誘導に基く供述であつて、任意性、証明力を欠如し、これらを一方的に信用して有罪の認定をした原判決には採証法則、経験法則に違反し、ひいて判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、というのであるが、前記各供述調書の供述内容を、原審証人山同譲次の公判供述その他の関係証拠と比照、検討しても、所論のような査察官、検察官の不当な取調態度によつて供述者らが真実に反する自白を余儀なくされたことをうかがわせるに足りるものとは認められず、前記各調書が任意性ないし特信性を欠如し、その信用性がないとはいえず、これらと他の関係証拠と総合して原判示事実を認定した原判決には、右の点において採証法則、経験則に違反し、証拠の取捨判断を誤まり、事実を誤認した違法はないといわなければならない。それゆえ論旨は理由がない。

(二)  所論は、さらに原判示「罪となる事実」第一ないし第四の各事実のうち、ほ脱の手段方法については、被告人李の自白調書の補強証拠としては、李漢成、薗田和江の検察官に対する各供述調書は不十分であつて、他にこれを補うものがなく、右の点につき補強証拠もないままに有罪の認定をした原判決には、採証法則に違反して事実を認定した違法があるばかりでなく、審理不尽の違法がある、というのである。しかしながら、所論指摘の各事実について、李漢成、薗田和江の検察官に対する各供速調書のほかにも多数の原判決挙示の関係証拠が存在し、これらは右の各ほ脱犯の事実全体をおおう証拠ではあるとはいいがたいにしても、ほ脱財産形成の根拠、結果等に関する証拠として、被告人李の自白の真実性を客観的に保障する補強証拠として十分であると認められ、また、これらの証拠と被告人李の自白部分と相まつて十分に前記各犯罪事実を認定することができるから、原判決には、右の点につき、所論のように採証法則に違反して事実を認定した違法は存在しない。そして、一件記録および証拠物を検討しても、所論指摘の争点についても、原裁判所は当事者双方に十分に主張、立証の機会を与え、証拠調を実施しているのであつて、なんら審理不尽の違法があるとは認められない。それゆえ論旨は理由がない。

(三)  所論は、原判決認定の基礎である個人財産不存在、個人営業不存在、パチンコ営業の高い収益率は誤りであり、原判決が認定したような売上除外は考えられず、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。

そこで検討してみると、原判決も、被告人李の営業資産以外の個人財産があつたことを否定するものでなく、また関係証拠によれば、同被告人が昭和二八年頃から昭和三二、三年頃までパチンコ機械の販売により多くの利益を挙げていたことも十分認められるのである。しかしながら関係証拠を比照検討してみると、被告人李の検察官に対する昭和三八年四月一一日付(記録第五分冊四八五丁参照)、同月三日付(同じく五二一丁裏参照)各供述調書によると、本件における対象事業年度である昭和三四年ないし昭和三七年頃にはパチンコ機械の販売による収益の存在を被告人李自身認めていないところであり、被告人李の査察官に対する各質問てん末書、検察官に対する各供述調書その他関係証拠を総合すれば、被告人李は被告人会社および大栄興業株式会社の業務に関し、本件の対象事業年度に関する限り、法人税を免れる目的をもつてパチンコ玉の売上げの一部を簿外にする不正手段により法人税のほ脱をしたことを認定するに十分であつて、右簿外財産の形成が被告人李個人の特有財産、右各会社の営業とは別個の個人営業による収益をもつてなされたことを首肯し得る証拠(この点に関する被告人の原審供述は関係証拠に照して措信できない)はなく、右認定を動かすものはないといわなければならない。もつとも、所論は、この点につき被告人会社および大栄興業株式会社のパチンコ営業の収益率では売上げの一部を除外することは論理的に不可能である。すなわち、検察官主張の修正損益計算書記載の数字(検察官の冒頭陳述書別表5、9、13)によれば、計算上昭和三四年九月から同三五年八月の間においてその営業日ごと平均五三、〇〇〇円の利益から営業日ごと平均五万円を、昭和三五年九月から同三六年八月の間において同じく四六、〇〇〇円の利益から四八、〇〇〇円を、昭和三六年九月から同三七年八月の間において同じく二九、〇〇〇円の利益から三二、〇〇〇円をそれぞれ被告人李において売上除外していたこととなり、計数上からもあり得ない事実認定である、と論難するのである。しかしながら関係証拠によれば、昭和三〇年四月以降連発機械禁止によりパチンコ営業による収益率が一般に低下したことは認められるけれども被告人会社および大栄興業株式会社の営業収益から売上除外をすることが可能であつたことは明らかなのである。所論は一日当りの実際売上利益から一日当りの実際営業経費を控除し、一日当りの実際営業利益から一日当りの売上除外額を控除できるかどうかを判定するにあたり、一日当りの実際営業経費として、当該事業年度において現実に支出される公租公課、支払利息その他の経費とともに、当該事業年度において現実に支出されない減価償却費をも含めて売上利益からこれを控除しているために、計数上実際営業利益から売上除外額を控除し得ない観を呈しているにすぎない。しかし、売上利益(荒利益と売上原価との差額)から営業経費を控除し、実際の営業利益から売上除外が可能か否かを論ずるにあたつては、当該事業年度における現実の支出を伴わない減価償却費をも現実の支出を伴う実際の営業経費(公租公課、支払利息、その他の経費)とともに売上利益から控除することを認めて売上除外の可否を判断するのは相当ではないといわなくてはならない。そして、このことは本件においてほ脱利益算定の際減価償却費の控除を認めたことと矛盾するものではなく、右算定の際には単に売上利益から売上除外が可能か否かという面ばかりでなく、受取利息等の収入源をも総合的に判定する必要があるのであるから、売上除外の能否を論ずる場合とほ脱利益算定の場合とでは減価償却費に対する取扱いを異にすることとなるのである。しかるに、所論は、売上除外の能否を論ずる場合にも、減価償却費をも実際営業経費の中に含ませて売上利益から控除することを前提としての不合理を論ずるものであるから、その前提において失当であるというほかなく、この点に関し、減価償却費を営業経費の中に組入れることなく試算するときは別表掲記のとおり所論の矛盾の生じ得ないことは計数上も明らかなのである。それゆえ所論は採用し得ない。

したがつて、原判示の「罪となる事実」は原判決の挙示引用する証拠によつて十分認定することができるのであつて、所論にかんがみ、一件記録および証拠物を調査し、検討してみても、原判決に判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認を疑わせるものは存在しない。それゆえ論旨はいずれも理由がない。

控訴趣意第四点について。

論旨は、原判決の量刑は重過ぎて不当である、というのであるが、本件各犯行の罪質、罪態、脱税額等にかんがみれば、その責任は軽視することを許されないものがあり、所論指摘の被告人らに対するいわゆる行政罰としての課税処分の存在およびその履行、同種の前科前歴のないこと、その他被告人らのため酌量すべき所論の事情一切を考慮しても、原判決の量刑はやむを得ないものであつて、特にこれを変更すべき事由があるとは認められない。それゆえ論旨は理由がない。

(なお、職権をもつて調査すると、原判決の被告人会社(被告人栄大商事有限会社)に対する法令の適用のうち、原判示第一、二の各所為に関して、原判決は昭和三七年法律四五号付則一一項を掲記していないのであるが、原判決が法人税法五二条を明記し、原判示第三の所為につき特に右五二条の適用除外を掲げている点からみても、また被告人李の原判示第一、二の各所為に対する法令の適用の記載と対比してみても、被告人会社に対する原判示第一、二の各所為についての擬律は、被告人李に対する場合と同様に昭和三七年法律四五号付則一一項をも適用したうえで、同法による改正前の法人税法五一条一項、四八条一項、五二条を適用して処断したことがおのずから明らかであるから、原判決には経過規定である右付則一一項の記載を 脱したかしはあるけれども、右かしは原判決を破棄する理由にはならないものというべきである。)

以上の次第で、刑訴法三九六条により本件各控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項本文、一八二条によりこれを全部被告人両名に連帯して負担させることとし、主文のように判決をする。

検事 古谷菊次公判出席

(裁判長判事 江里口清雄 判事 上野敏 判事 粕谷俊治)

(別表)

1日当りの比較表

〈省略〉

注 本表記載の計数の基礎となる数値は検察官冒頭陳述書添付の各事業年度記載の修正損益計算書による。

別表の説明

〈省略〉

昭和四二年(ラ)第一〇四六号

控訴趣意書

栄大商事有限会社

外一名

右法人税法違反被告事件につき左のとおり控訴趣意を陳述する。

昭和四十二年九月十六日

右弁護人 小沢茂

上田誠吉

平井直行

田代博之

東京高等裁判所

第七刑事部 御中

第一点

原判決には事実の誤認があつて、その誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄さるべきである。

一、原判決は「罪となるべき事実」として、被告人李聖凡は被告人栄大商事有限会社および大栄興業株式会社の業務に関し法人税を脱れる目的をもつて売上の一部を除外にする等の不正手段により、

第一、昭和三四年九月一日より同三五年八月三一日までの事業年度において、被告人栄大商事有限会社の実際の所得金額は、一四、五九八、三九六円であつたのにかかわらず、同年一〇月三一日所轄甲府税務署長に対し所得金額が一、二九七、五一〇円であり、これに対する法人税額が四二八、一七〇円である旨の虚偽の確定申告書を提出し、もつて詐欺不正の手段により右事業年度の実際の所得金額に対する法人税額五、四四七、三五〇円と右申告法人税額との差額五、〇一九、一八〇円をほ脱し、

第二、同三五年九月一日より同三六年八月三一日までの事業年度において、被告人栄大商事有限会社の実際の所得金額は一七、六五五、四九三円であつたのにかかわらず、同年一〇月三一日所轄甲府税務署長に対し所得金額が一、五二三、一七五円であり、これに対する法人税額が五二二、六二〇円である旨の虚偽の法人税確定申告書を提出し、もつて詐欺不正の手段により右事業年度の実際の所得金額に対する法人税額六、六〇九、〇五〇円と右右申告法人税額との差額中四、八八五、二二六円をほ脱し、

第三、同三六年九月一日より同三七年八月三一日までの事業年度において、被告人栄大商事有限会社の実際の取得金額は八、一二六、一六四円であつたのにかかわらず、同年一〇月三一日所轄甲府税務署長に対し、所得金額が一、七九二、四四六円であり、これに対する法人税額が五六四、四九〇円である旨の虚偽の確定申告を提出し、もつて詐欺不正の手段により右事業年度の実際の取得金額に対する法人税額二、三九三、九一〇円と右申告法人税額との差額一、八二九、四二〇円をほ脱し、

第四、同三七年一月二七日より同年八月三一日までの事業年度において大栄興業株式会社の実際の所得金額は三、四二四、三六四円であつたにかかわらず、同年一〇月二五日所轄甲府税務署長に対し、所得金額が六七、三二八円であり、これに対する法人税額が二二、二〇〇円である旨の虚偽の確定申告書を提出し、もつて詐欺不正の手段により、右事業年度の実際の所得金額に対する法人税額一、二三四、五六〇円と右申告法人税額との差額中一、二〇七、七七〇円をほ脱したものである。(ほ脱所得の計算は別紙第一ないし第五の修正貸借対照表のとおりである。)

と認定判示した。

二、右事実の認定は誤つており、その誤認は判決に影響を及ぼすところのものである。

原判決の誤認点は次の箇所である。

(一) 被告人李聖凡は、

1. 法人税ほ脱の犯意があつた。

2. ほ脱の方法として売上を簿外にした。

3. 虚偽の確定申告をした。

(二) 被告人栄大商事有限会社(以下栄大商事と略称する)は、

1. 昭三四・九・一より同三五・八・三一までの所得金額が一四、五九八、三九五円あつた。

2. 昭三五・九・一より同三六・八・三一までの所得金額が一七、六五五、四九三円あつた。

3. 昭三六・九・一より同三七・八・三一までの所得金額が八、一二六、一六四円あつた。

(三) 大栄興業株式会社(以下大栄興業と略称する)は、昭三七・一・二七より同年八・三一までの所得金額が三、四二四、三六四円あつた。

三、原判決は判示認定の前提として次に述べる事実、論理、方法、立証を該認定の基礎としている。

(一) 事実

1 被告人李の個人財産不存在

栄大商事が設立された昭和三三年一〇月二日当時、被告人李はそれまでの個人営業であつた営業のための資産二〇、一八五、七四四円の外、明らかに同人個人のものとみられるものを除き、基余に何等の財産はなかつた。

2. 被告人李の個人営業不存在

被告人李は昭和三三年一〇月二日以降同人個人として何等の営業活動を行つていなかつた。

3. 被告人李の個人収入源不存在

被告人李は昭和三三年一〇月二日以降同人個人として何等の収入源を持つていなかつた。

4. パチンコ営業の高収益性

昭和三四年九月一日以降のパチンコ営業は高い収益率を維持する企業であつた。

(二) 論理(演繹的理論)

1. 被告人李個人の財産の取得・支出の源泉は栄大商事並に大栄興業の売上除外には存在しない。何故なら、被告人李は(一)記載の如く個人財産不存在、個人営業不存在、個人収入源不存在であるから預金不動産有価証券等を個人の財産と収益をもつて取得することもまた支出することも出来得る筈はなく、これらのものがあるとすればすべては前記両会社の売上除外である。よつて圧縮記帳による圧縮分の支出も、個人の預金や不動産有価証券の所得もすべて売上除外金をあてたものである。

2. パチンコ営業は(一)記載の如く高い収益率を維持する企業であつたから、被告李の売上除外も多額に且つ容易に行われ得たものである。

(三) 方法(財産増減法)

財産増減法による資産所得の計算方法は刑事裁判に於ける厳格な証明を要する場合にも妥当する。

(四) 立証

1. 被告人李本人の自供調査、質問顛末書等は任意性信憑性あり有罪認定の証拠たり得る。

2. 李漢成、薗田和江らの検察官面前供述調書質問顛末書も任意性特信性あり被告人ら有罪認定の補強証拠たり得る。

3. 被告人李の自供につき李漢成、薗田和江の供述は自供の全面にわたり補強証拠たり得る。

四、本事案の争点

本論三項記載の原判決認定の基礎とされた諸点は何れも本事案の認定を左右する点で検察側に於て極力主張し、弁護側に於て反論反証を準備し防禦にあたつた争点であつた。若し三項(一)記載の事実に関し、1.の被告人李の個人財産がより多額のものとして存在しており、2.被告人李の個人営業が継続しており、3.被告人李の個人としての収益があつたこと等がその一たりとも立証されるなら同項(二)記載の論理的帰結に破綻を招来し、検察側の公訴は崩壊を来す結果になりかねない要因を含むものであつた。この事は(一)記載4.のパチンコ店収益の当時に於ける低収益率の認定が行なわれた場合も同様であり、(三)記載の財産増減法が刑事事件の構成要件立証として許されざる計算方法なること、(四)記載の自供や補強証拠の任意性、信憑性、特信性の否定からする採証否認が認められる場合も同じ結果に到達することになるべき一つ一つが重大な争点であつたのである。

就中、被告人李がより多額の個人財産を所有し、個人に収益の帰属する営業を継続し、多額の収益をあげておつたとの点は検事が公訴維持のため冒頭より否認し、徹底して弁護人側の主張立証を争つたところであり、検察側自身これが弁護人側の主張立証の認容は検察側の敗北につながり、これが排斥は検察側の勝利即ち有罪につながるところとみていた点であつたのである。

五、原判決判示事実認定上の争点に対する判断と問題点

(一) 前項のこれら争点に関し原判決は全面的に検察側の主張立証を容れ、三項記載の事実、論理、方法、立証につき弁護側の主張立証を排斥した。勿論排斥しなければ判示事実は認定不可能であつたわけである。

(二) 若し原判決が三項記載(一)の事実についても全面的に排斥するのではなく、その一若くは二たりとも認めざるを得なかつたとし、他面除外も認める立場に立つと、認定の証拠として残るのは任意性、信憑性、特信性に争のあることは別にして売上除外したとする被告人の自供調書質問顛末書と、自供を補強する李漢成、薗田和江の供述のみである。しかも右は何れも具体性を欠く抽象的供述でありこれら供述をもつてしては被告人李個人の財産所有は売上除外にのみよるものでありその除外金が右所有に具体的につながつた過程は何等明らかにされていない。そうだとすると被告人李の個人財産個人収益と売上除外によるものとは、区別が全くつかなくなり、これより生ずる個人名義の預金、不動産有価証券や個人的支出についてこれらがすべて前記両会社よりの売上除外よるほ脱額そのものとする主張は飛躍があり倒底許さるべきものではなく、よつてより徹底した捜査が行われ、これらが区分出来るまでにして公訴の維持をはからなかつた検察側の捜査不十分であつたことによるものであつて、原判決は認定不可能として無罪を言渡すべきものであつたのである。

(三) 原判決は検察側の主張立証を容れるにあたり、弁護側の主張立証につき、しかも事実の認定を左右し得べき争点に関する重大な主張立証であるにも拘らず、何故にこれを排斥したのかの合理的理由を示さず判示認定した。原判決には、弁護側の主張立証を具さに検討し、認定に及んだ形跡は残念乍ら窺えない。

検察側も公訴維持の成否にかかわる問題点として、意を注いで弁護側の主張立証を争つた争点につき、弁護側の納得のゆく排斥理由を示さない原判決は甚だ遺憾である。

(四) 畢意原判決は、争点の一たりとも容観的な証拠を取り容れてこれを認めることになれば、無罪とするが、然らずとすれば本事案を複雑難解なるものとし、出口なき迷路に追いこむことになるのを恐れ、客観的な証拠を自由心証の刃で切捨て、安易に検察側の主張立証に追随することにより有罪にしたものであるとの推測もあながちうがちすぎたものではない。

(五) 以上の如く原判決の認定事実は、本来あるべき事実を歪めて認定した誤りがあることを弁護側は主張し、よつて次項よりは原審認定事実の誤りである所以を、前記争点事実につき記録にあらわれた証拠等を援用し乍らその誤認を指摘しない。

六、事実認定に関する弁護側の主張(弁護側の主張する事実)弁護側の主張立証は原審では殆んど無視されたとも云える結果となつたので、本趣意書を提出するにあたりあらためてこれが主張を明らかにしたい。しかして其順序は大略三項記載の争点順序に従つて述べることにする。

(一) 事実に関する弁護側の主張

1. 被告人李の昭和三三年一〇月二日頃の個人資産

被告人李は終戦後の混乱時に約二〇〇万円余の資産をもちこれを金融等にまわして利益をおさめ、昭和二四年頃からはパチンコ店の経営並にパチンコ機械の販売に投じて巨富を得、とくにパチンコ機械の販売は昭和三六年頃まで続けられてその間の利益は一億円を下らず、パチンコ店の営業は昭和三三年法人組織にするまでで約三千万円の利益をあげている、

原審検察側の立論も裁判所の認定も、それまで個人営業であつた営業資産二〇、一八五、七四四円の外、これと云う財産は被告李になかつたとするのは誤りであり、当時被告人李は右認定の営業資産を除き数千万円の資産財産を有しており、これが或は貸金に、或は預金に或は不動産に、或は手許所持の形で同人のもとにあつたものである(上田弁護人の原審弁論要旨二項記載、平井弁護人の同要旨二項記載各参照)。

2. 被告人李の個人営業とこれによる収入について

被告人李のパチンコ店の個人による経営は栄大商事の発足とともに終り、此面での個人営業とこれによる収入源はなくなつたが、パチンコ機械の販売は栄大商事の設立によるパチンコ店の経営と平行して、被告人李個人に於て其後も従来通り続けられ、同人は此の方より多額の収益をあげていた。これが収益は預金貸金不動産なぞにそれぞれなつていつたのである。(平井弁護人の原審弁論要旨二項に詳細に述べられているので此記載参照)

3. パチンコ営業の低収益率について

パチンコ店経営による収益率は昭和二五年頃から同三十年連発禁止に至る頃がやまであつたと云われる。昭和三〇年四月連発機械が禁止された。連発禁止はパチンコ業界に大きな波紋を投じた。それまでパチンコ遊戯業の好況にのつた業者のなかには倒産、転業が相次ぐ事態となつた。昭和三〇年から同三四年頃の不況の間に甲府市内だけでも十二、三軒の大きな店がつぶれていつた。(被告人質問昭和四一・一一・二第一二回公判)この不況をどうやらのりきつたかにみえた市内の青木美幸証人の店は昭和四〇年八月に、同じく向山秀雄証人の店は同三九年八月に廃業している 昭和四〇年頃までには甲府市内で二五、六軒の店がつぶれていつた。

その理由は簡単である。一言で云えばパチンコ営業の収益率が低くなつたからである。連発禁止によつて、客の入りと一回の売上が減り、それが売上全体の減少を招き、業者間の競争をうながし、或は景品の出をよくし、或いはサービス玉を出し、或は一定期間、売上げを上廻る景品を出すなどの過当競争となり資本の力の弱い業者は脱落したのである。「台当りの売上げは一日平均七、八百円に減り、あら利益は二割か二割五分に落ちてしまつた」(向山証人)。「売上は半分にへつた。七、八百円位、あら利益は二割か二割五分、二割ではだめだから店をやめた」(青木証人)。

荒利益で二割を割ると、もともと総売上げは半減しており、経費としてはさしてかわらないので店としては成りたつていかないのである。

客の選択はきびしい。ひとたび連発時代を通過した客は無駄には球をうたない。一台当り五六百円におちた売上げに対して、十割の景品を出して客を店につなぐ。

錦町の店はこういう時代に売りにでた出ものであり、誰も買う者はいなかつた。被告人李はこれを買いうけて、「長期にわたつて無理な営業をし、それで客をつけた」(被告人質問、前同)。昭和三四年頃から景品八割出して一台当り一日八百円から九百円やがて千円位に上昇して頭打ちとなるこれも一様にと云うわけでなく、およそAクラスの店で一台一日の売上げが千円前後、あら利益二割と云う線で安定を示すのである。同時に有人機が無人機にきりかわり、機械、店舗の設備などに投ずる資本は増加するが日常の経費は比較的に増えないという事態となつて、パチンコ業者の戦国時代は終る。

この経過に関する被告人質問の結果は、青木美華、向山秀雄、孫彩進、などの証言と一致し、伊藤博吉、新井健司などの製造業者関係の証言もその背景となる諸事情を証言していて、およそ真相をついたものと考えてよい。

その意味では、被告人の昭和三八年三月三一日付検事調書二項に「パチンコ店の売上の事について数年前税務署に主な業者が呼ばれて説明した時、業者の説明が一台一日千円位の売上げで利益(割数)は八割前後と云う事に一応しておつた」とあるのは、その後段に続くように「矢張り税務署に対する関係上此の様な説明をした」というわけでなくて、実際の売上げとあら利益を示していたのである。だから従来とも税務署の例ではおよそ右の線を基準に課税していたのである。南廷人証人もいうように税務署ではAクラスで一日一台の売上げを九百円から千円にみており、これは業者仲間の見方と一致していたのである。被告人が前記検事調書で割数を七割と供述しているのは、あきらかに検事に迎合した供述である。

さらに証言にあたつてみるならば、薗田和江証人が錦町の店について、日に売上げが二〇万円前後で、多いときで二五、六万円になることもあつたと証言しているのは台数二四四台の時期の売上げをのべているものとしてほぼ右の数字に一致する。

かゝるパチンコ業界に於ける営業実態下に於て、検察官主張原審認定の如き売上除外は倒底不可能なところである。

検察側は計算上一日一台の売上げは三ケ年平均で一、一八七円と異常に高い売上高をみている、これに対する弁護側の反論はすでに述べきたつたところであるから貴審の判断にまつとして、この検察側の売上高を仮に認めるとすれば、計算上昭和三四年九月より同三五年八月の間に於てその営業日毎平均五万三千円の利益から営業日毎平均五万円を、被告人李が売上除外していたことになり、昭和三五・九より同三六・八月までの間に於て同じく四万六千円の利益から四万八千円を同様除外していたことにより、昭和三六・九より同三七・八の間に於て同じく二万九千円の利益から三万二千円を同様除外していたことにならざるを得ないのである。(原審弁護人意見書、五項参照)

原判決は、修正貸借対照表を示すのみで、修正損益計算書を示していない。従つて営業日毎の平均利益と、営業日毎の平均除外金を幾何に認定したか知る由もない。

しかし、結論において、検察側の主張に対すると同様の反論が可能であることに変りはない。

かくして原判決の売上除外によるほ脱の認定は、認定自体矛盾しあり得べからざる事実認定として崩壊せざるを得ないのである。

これも本件の起訴が全く数字の虚構、数字の魔術であり、架空数字の捏造とこの組合せの上に構成されているにすぎず、原判決がこれを鵜呑みにした結果に外ならぬのである。

(二) 論理に関する弁護側の主張

1. 被告人李には多額の収入を伴う個人としての営業が存在したし、個人として、又多額の自己の資産を有していたことが明らかとなつた。

かくして、原判決認定の基礎となる、被告人李個人の財産不存在、個人営業不存在、個人収入源不存在であるから個人財産を取得、出来る筈はなく、これらのものがあるとすればすべては前記両会社の売上除外であるとの論理的帰結は、誤りであることが明らかになつたものと信ずる。

2. パチンコ営業は、高い収益率を維持する企業であるから、売上除外も多額且つ容易に行われ得たものであるとの抽象論理の帰結も、倒底パチンコ営業の実態からして検察官が主張し原判決が認定したような除外が出来得べきものではないことも明らかにされたものと信ずる。

七、事実誤認点に対する結論

以上述べたとおりであり、右の事実誤認は判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、この点においても原判決は破棄されなければならない。

第二点

原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかである法令の適用の誤りがあり、かつ経験則背反、採証法則違反に基く事実の誤認があるので、破棄されるべきである。

一、原判決は「被告人李聖凡は右被告人栄大商事有限会社および右大栄興業株式会社の業務に関し、法人税を脱れる目的をもつて売上の一部を簿外にする等の不正手段により」栄大商事については、

第一、昭和三四年九月一日より同三五年八月三一日までの事業年度(以下第一事業年度と略称する)において、法人税五、〇一九、一八〇円を、

第二、昭和三五年九月一日より同三六年八月三一日までの事業年度(以下第二事業年度と略称する)において、法人税四、八八三、二二六円を、

第三、昭和三六年九月一日より同三七年八月三一日までの事業年度(以下第三事業年度と略称する)において、法人税一、八二九、四二〇円を、

大栄興業については、

第四、昭和三七年一月二七日より同年八月三一日までの事業年度(以下大栄興業の事業年度と略称する)において、法人税一、二〇七、七七〇円を

それぞれほ脱した(ほ脱所得の計算は別紙第一ないし五の修正貸借対照表のとおりである)事実を認定した。ところが、売上の一部を簿外にしたその簿外資産によつて、

第一、第一事業年度の実際の所得金額一四、五九八、三九六円と、申告の所得金額一、二九七、五一〇円との差額一三、三〇〇、八八六円(以下第二乃至第四の差額とはこの意味であるが)が、

第二、第二事業年度の前同趣旨の差額一六、一三二、三一八円が、

第三、第三事業年度の前同趣旨の差額六、三三三、七一八円が、

第四、大栄興業の事業年度の前同趣旨の差額三、三五七、〇三六円が、

それぞれ形成されたものであるとの理由を説明する判示はない。言うまでもないことであるが、前記の別紙第一ないし五の修正貸借対照表は、売上の一部を簿外にしたその簿外資産によつて、右の差額が形成されたことを前提としての特定の計算方法であつて、簿外資産によつて右の差額が形成されたものであることの理由の説明ではない。

二、原判決は、前示第一ないし第四の事実に関する証拠の標目を掲記している。しかし、これ等の証拠の意味するところの挙証事実が何であるかについて全然説明がない。これ等の、特に帳簿書類や預金に関する帳簿類が如何なる証拠であるのかの説明をなさず、経理計算に素人である被告人李に対して、判決理由を納得すべしという態度で臨んでいることは、不親切極まりないものといわなければならない。結局のところこれ等の証拠は、別紙第一乃至五の修正貸借対照表の数字の根拠を示すものに過ぎず、前述のそれぞれの事業年度の差額が、売上の一部を簿外にしたその簿外資産によつて形成されたものであることを証明する証拠ではない。

要するに原判決は、前述の各事業年度の差額が、売上の一部を簿外にしたその簿外資産によつて形成されたものであるとの客観的な証拠を挙げることはできなかつたのであり、従つて簿外資産によつて形成されたものであるとの理由を、判示することができなかつたのは当然である。原判決は、右の理由を省略して判示しなかつたのではなく、合理的な根拠に基いて理由を判示することが不能であつたのである。

三、原判決は、前述のそれぞれの事業年度の差額は、売上の一部を簿外にしたその簿外資産によつて形成されたものであるとの証拠として、薗田和江、李漢成の検察官に対する各供述調書並に被告人李の大蔵事務官に対する各質問てん末書および検察官に対する各供述調書を援用している。しかしながら、薗田和江、李漢成の供述は簡単にして抽象的、かつ特信性がなく、被告人李の自供は、現実性がなく、かつ、信用性がないことは、後に述べるとおりである。要するに、これ等の供述によつても、前述のそれぞれの事業年度の差額(それは具体的には、預金、土地、建物、有価証券等の財産、これらの財産の圧縮記帳として表れていると原判決も判断しているものである)が、売上げの一部を簿外にしたその簿外財産によつて形成され取得されたものであることを、具体的に明らかにすることはできない。換言すれば、何年何月何日の、売上を簿外にした幾何の金具により、どの預金が形成されたとか、この簿外にした幾何の金員がどのような経過をたどつてどのような財産が取得されたという、具体的な状況を明らかにすることはできないのである。

そこで検察官は、法人税法上の財産増減法に基く所得を推計するという便法を用いて、栄大商事や大栄興業の所得を主張し、原判決も検察官に追従し、検察官の主張を鵜呑みにして、財産増減法により右両会社の所得を認定したものとしている。要するに、被告人李の自供やその他すべての証拠によつても、前述のそれぞれの事業年度の差額が、売上げの一部を簿外にしたその簿外財産によつて形成取得されたことを合理的に説明できないので、財産増減法という便法に逃げ込んだのである。

四、原判決は、「弁護人らの主張に対する判断」二において、「所得額の算出は損益計算法すなわち損益計算書によるも、財産増減法すなわち貸借対照表によるもいずれも可能であることは一般に是認されているものであり、そのいずれによるも正確な所得を算出認定するならば違法とは言いえないものである」と判示した。しかし、何故に「一般に是認されている」かの根拠につき何等の判示がない。本件事案は法人税に関するものであるから、右判示は、法人税法上是認されているという趣旨であると判断せざるを得ない。

そこで、法人税法上所得金額の算出は損益計算法と財産増減法のいずれによるも可能であると言い得るものであろうか。また、本件において、財産増減法により所得金額を認定することは違法ではないかにつき、以下検討しよう。

(一)、本件当時の法人税法第八条は「法人税の課税標準は、各事業年度の所得及び清算所得の金額による」と規定する。本件には、清算所得は関係がないので、本件で問題となる法人税の課税標準は、栄大商事や大栄興業の当該各事業年度の所得金額である。

以下本件当時の法人税法を、単に法人税法と称することとする。

(二)、法人税法第九条第一項は「内国法人の各事業年度の所得は各事業年度の総益金から総損金を控除した金額による」と規定する。各事業年度の総益金から総損金を控除した金額が、その事業年度の所得なのである。これは事業年度の法人所得の概念規定であるだけでなく、事業年度の法人所得の計算方法を明らかにした規定である。これが法人所得に関する概念と計算方法の原則的規定である。総益金とは益金の集合であり、総損金とは損金の集合である。基本通達五一号によつて「総益金とは、法令により別段の定めのあるものの外資本の払込以外において純資産増加の原因となるべき一切の事実をいう」のであり、また基本通達五二号により「総損金とは法令により別段の定めがあるものの外資本の払戻又は利益の処分以外において純資産減少の原因となるべき一切の事実をいう」のである。

これを本件の場合にあてはめて言えば、当該事業年度の法人の事業活動から得られた資産増加の総和から、その事業活動より生じた資産減少の総和を控除したものが、その事業年度の法人所得である。要するに各事業年度の事業活動より生ずる益金と損金を発生原因においてそれぞれ具体的に把握し、その益金と損金を具体的に計算し、その益金の総和からその損金の総和を控除して得られたものが、各事業年度の法人所得なのである。これが所謂損益計算法である。重ねて強調しよう。損益計算法こそが、法人所得の計算方法の原則なのである。

(三)、法人税法第三一条の四の第二項は「政府は、前項の規定の適用を受けない法人の事業年度分について、第二十九条乃至第三十一条の規定による課税標準又は法人税額の更正又は決定をなす場合においては、当該法人の財産若しくは債務の増減の状況、収入若しくは支出の状況又は生産量、販売量その他の取扱量、従業員数その他事業の規模により各事業年度の所得金額を推計してこれをなすことができる。」と規定している。

これが所謂推計課税の方法の規定であり、右に規定する財産増減法は所得金額を推計する方法の一種である。この規定は、財産の増減その他の状況により、各事業年度の所得金額を推測計算して更正又は決定することができる道を開いたのである。

その推測計算された金額は、所得金額の推計であつて、本来の意味の、原則的な概念としての所得金額ではない。所得金額が正確に算出される原則的な損益計算法を規定した法人税法第九条第一項以外に、何故に同法第三一条の四の第二項の規定が存在するかが問題である。

法人税法は、すべての法人が法人税法第九条第一項の規定に基き損益計算法による正確な所得金額を確定申告すべきことを期待している。しかし、所謂白色申告をなすべき法人が全然申告をしない場合、また青色申告法人たると白色申告法人たるとを問わずその申告が過少で適正でない場合には、政府は調査の上所得金額と税額を決定又は更正できることとしなければならない。その場合に、白色申告法人の帳簿書類等が整備されてない場合等は調査しても損益計算法によつて所得金額を正確に算出できないことがあり得る。従つて、所得金額の算出は損益計算法によらねばならぬという原則を貫くときは、結局決定又は更正ができないこととなる。これでは課税権の行使が阻害される結果となる。

そこで課税権の防衛として、推計課税という便宜的例外的な所得金額を推測計算する方法が規定されたものと考えられる。所得金額の推計は、所得金額の算出ではなく、あくまでも推計に過ぎず、その意味で正確なものでないことは前述したとおりである。正確なものでない故に、所得金額の推計は、決定又は更正という行政処分の場合にのみ許されるのである。法人税法第三一条の四の第二項はこのことを明白に規定している。同条項は、行政処分である決定又は更正以外の場合に、類推適用或は拡張解釈してはならない。

若しそのようなことが許されるならば、課税標準たる所得金額の算定は法律の定めるところによらなければならないという、租税法律主義の原則に違反するからである。財産増減法による所得金額の推計は、あくまで推計であつて正確な所得金額でなく、実際上正確な所得金額と合致しない場合が多いだろう。この推計による課税(決定又は更正)に不服がある場合は、税務署長に対して異議の申立をなすことができる。若し不服があつても異議の申立がない場合は、推計による課税は最終的に確定する。それは課税を受けた者が不服審査の権利を行使しないからである。推計による課税が最終的に確定することは違法ではない。

それは法人税法第三一条の四の第二項が、推計により課税することを適法としているからである。異議の申立をなした者は、税務署長に対して推計された所得金額が正確でない理由を開陳するだろう。

その理由は所得金額の推計が適当でないことであるが、より積極的には損益計算法に基き正確な所得金額を主張することである。

異議申立の理由によつて推計による課税の一部若しくは全部が誤りであることが明らかになるならば、税務署長は推計による課税の一部若しくは全部を取消すこととなる。推計による所得金額はあくまで推計であるから、誤りであることが明らかになれば推計による課税が取消されるのは当然である。推計による所得金額とは、このような内容を有するものなのである。異議申立の理由によつて、所得金額の推計の誤りを明らかにすることができぬ場合は、税務署長は異議申立を棄却する。右の一部取消の場合に取消されない部分につき、或は棄却決定につき尚不服があるならば、国税局長に対して審査請求をなすことができる。若し不服があつても審査請求がない場合は、推計による課税(一部取消の場合は取消されない部分)は最終的に確定する。それが最終的に確定し、推計による課税が適法であることは、税務署長に対して異議の申立をしない場合に前述したと同様である。

審査の段階における、審査請求者と国税局長との関係は、異議申立者と税務署長との関係として右に述べたところと大体同様であると言うことができよう。国税局長は、推計による課税の一部若しくは全部を取消し、又は審査請求を棄却することとなる。一部取消の場合に取消されない部分につき或は棄却決定つき尚不服があるならば、裁判所に出訴することができる。

若し不服があつても裁判所に出訴しない場合は、推計による課税は最終的に確定する。

それが最終的に確定し、推計による課税が適法であることは前述したとおりである。

このように財産増減法による推計課税に対しては、課税を受けた者の不服を聴き、権利救済をなす方法が開かれているのである。

逆に言えば、このように権利救済の手段としての不服審査の方法が保障されているが故に、財産増減法等による推計課税という行政処分をなすことができることになつているのである。

このようにみてくると、原判決の「所得額の算出は損益計算法によるも、財産増減法によるもいづれも可能であることは一般に是認されている」との判示が誤りであることが明白となるであろう。取得金額の算出は損益計算法によるのが原則であり、財産増減法によるのは所得金額の推計であつて本来の意味の算出ではない。その推計は税法上の行政処分たる決定又は更正をなす場合にのみ許されるのである。しかもその推計は、不服審査の段階で全部又は一部が取消されることがあり得るのである。

財産増減法による所得金額の推計は、あくまで推計であることは明白であろう。税法上の行政処分たる決定又は更正以外の場合に、税法上の所得金額を推計することは、租税法規の類推解釈乃至拡張解釈であつて、租税法律主義の原則に違反するものである。

(四)、本件は刑事事件である。公訴事実たるほ脱行為は、冒頭陳述等により具体的に主張され、厳格なる証拠によつて立証されなければならない。公訴事実たるほ脱行為が具体的に主張されず、ほ脱行為を推測する事実である所得の推計金額が主張され、その推測される事実を立証することは、刑事事件においては許されぬことである。

これは自明な原則である。公訴事実たるほ脱行為を具体的に主張するということは、損益計算法によつて法人所得を明らかにし、その法人所得があるにもかかわらず、被告人が法人所得を適正に申告せず、特定の金額の法人税をほ脱したことを主張しなければならない。この主張が厳格な証拠によつて立証されて、はじめて被告人のほ脱行為が立証されたことになるのである。

ところが、本件においては、検察官は公訴事実たるほ脱行為によるほ脱金額を、損益計算法によらず、財産増減法によつて主張している。このように財産増減法によつて主張することは、公訴事実を具体的に主張せず、公訴事実たるほ脱行為によるほ脱金額を推測する事実である所得の推計金額を主張しているに過ぎぬのである。この推計金額の存在が立証されたとしても、公訴事実が証明されたことにはならない。原判決は、公訴事実の存在を推測する事実である所得の推計金額が証明されたものとして、そのことにより公訴事実たるほ脱行為によるほ脱金額の存在が証明されたものと独断誤認する誤りを侵しているのである。この点だけからみても、原判決は「正確な所得を算出認定」していないのである。

更に言えば、本件は刑事事件であるが、公訴事実たるほ脱金額の計算は法人税法上の所得金額に関する計算であり、それは法人税法上の規定に基き算出されなければならない。財産増減法によつて所得金額を推計することは、税法上の行政処分たる決定又は更正の場合のみに許されるものであることは前述したとおりである。刑事事件において、ほ脱金額の有無を認定することは、税法上の行政処分ではない。

また、刑事事件であるが故に、行政処分たる決定又は更正の適否を判断するものでないことは言うまでもない。しかしながら、刑事事件においてほ脱金額を認定するということは即所得金額と税額を認定するということであつて、判決が確定することは所得金額と税額が確定することを意味する。何となれば、本件の如き刑事事件の判決が確定したならば、税務署長は課税処分を確定判決の趣旨に添うようにするであろうことは明らかであるからである。刑事事件において、ほ脱金額の有無を認定する方法として、財産増減法による所得金額を推計する方法を執ることは、決定又は更正という課税処分もなく或はこれを問題にせず(現に本件においては決定又は更正の有無さえ問題になつていない)、「決定又は更正に対する不服審査裁判所への出訴という権利救済の機会」を被告人から奪い取り、所得金額と税額を確定せしめる結果となるのである。それは、税法を無視し、税法の規定に基かず、所得金額と税額を確定せしむる道を開くこととなることは明白である。

刑事事件において、ほ脱金額の有無を認定する方法としては、損益計算法によるべきであつて、財産増減法により所得金額を推計する方法を執つてはならない。本件刑事事件において、ほ脱金額の有無を財産増減によつて計算することは、法人税法第三一条の四の第二項の規定を刑事処分に類推適用又は拡張解釈して、所得金額と税額を確定することを意味し、租税法律主義の原則に違反するものである。

五 原判決は、「弁護人らの主張に対する判断」二において、「、、、そのいずれによるも正確な所得を算出認定するならば違法と言いえないものである。しかも前掲李漢成、薗田和江および被告人李聖凡の検察官に対する各供述調書によれば被告人会社の帳簿の記載はその内容が不正確であつたことが認められるのであつて、このような場合には、財産増減法により所得額の算出をすることはやむを得ないものである」と判示している。以下この判示につき検討しよう。

(一) 右判示の「被告人会社の帳簿」とは、被告人会社と大栄興業の帳簿の意味と解すべきであろうか。原裁判所は、右判示事項を判断する場合に大栄興業が本件に関係があることを忘失していたのである。原判決の判断の粗洩は、このような点からも暴露される。

栄大商事や大栄興業の帳簿の記載内容が不正確であつたことはない。それは栄大商事の確定申告と修正確定申告並に大栄興業の確定申告のとおりであり、それらは正確な帳簿を根拠としているのである。栄大商事と大栄興業の財産は両法人の財産目録に記載したとおりであり、それ以外に両法人の財産はない。

判示援用の李漢成、薗田和江、被告人李の検事調書には判示の趣旨に添う供述記載はあるが、李漢成と薗田和江の供述は特信性がなく、被告人李聖凡の供述は信用性がなく、ともに真実を述べたものでないことは、後に述べているとおりである。簡単にして抽象的なこれらの供述が信用できるものとして、栄大商事と大栄興業の帳簿の記載内容が不正確であつたと認めることは甚だしく事実を誤認するものである。原判決は、栄大商事と大栄興業のどの帳簿の如何なる点が不正確であると判示していないし、実際のところこれを合理的に判示することはできないのである。このような粗洩な判示を前提にして「このような場合には、財産増減法により所得額の算出をすることはやむを得ないものである」と判示するに至つては、乱暴極まる独断と言う外はない。弁護人はこのような乱暴な判示により財産増減法を採用した刑事判決はないであろうと信じている。

(二) 原判決は、財産増減法によつて栄大商事と大栄興業の所得金額を正確に認定しているように判示しているが、果してそうであろうか。右両会社の所得金額を財産増減法によつて計算する場合の増加財産とは、両会社の益金によつて取得されたことが客観的に明白な財産の増加でなければならない。

両会社の益金によつて取得されたものでない財産、両会社の益金によつて取得されたか否か不明な財産は、増加財産に算入してはならないのである。そうでないならば、両会社の所得金額を財産増減法によつて正確に計算したとは言い得ない。原判決が、財産増減法によつて両会社の所得金額を正確に計算していないことは次の六で述べるとおりである。

(三) しかしながら、仮に本件の両会社の所得金額が財産増減法によつて正確に計算されたとしても、また、仮に、両会社の帳簿の記載が不正確であつて財産増減法により所得金額を計算することはやむを得ないとしても、それは、行政処分たる決定又は更正の場合のみに許されるのであり、本件の如き刑事事件においては許されないことは前述したとおりである。

六、栄大商事が設立された昭和三三年一〇月二日当時において、被告人李が検察官の主張によつても二〇、一八五、七四四円の私財を有していたこと、しかし実際は右被告人はそれを上廻る数千万円の私財を有していたものであること、栄大商事設立以後昭和三六年まで右被告人は個人としてパチンコ機械の販売業を営み数千万円の利得を得たこと、これらの私財によつて被告人李の預金が形成され不動産が取得されまた栄大商事や大栄興業に対する投資がなされたこと、栄大商事や大栄興業のパチンコ営業の荒利益は約二割であつて原判決が判示するように売上げの一部を簿外にする程の利益がなかつたことは、前述したとおりである。

また、原判決は、前述のそれぞれの事業年度の差額が売上の一部を簿外にしたその簿外資産によつて形成され取得されたものであるとの理由の判示がないこと、また、右の差額が売上の一部を簿外にしたその簿外資産によつて形成され取得されたものであることを証明する客観的証拠がないことも、前述したとおりである。

(一) 原判決が、前述のそれぞれの事業年度の差額が、売上の一部を簿外にしたその簿外資産によつて形成され取得されたものであることの理由を判示しなかつたのは、その理由は検察官の主張のとおりであると判断したものと考えざるを得ない。

検察官は、冒頭陳述五の2において、

(1) 栄大商事については「個人の資産の上に会社の別口利益が累積されて、混然一体となつているので、計算上個人時代からの営業のための資産はすべて会社に帰属したものとし、、、すべて李聖凡からの仮受金として処理し、会社の別口利益によつて取得した個人財産は前記仮受金の返済又は李聖凡に対する貸付金として処理する」とか

(2) 大栄興業については「設立に当り、造作、機械、備品等を多額に簿外で取得しており、且つ、同会社の売上除外による利益は、大栄商事有限会社の簿外財産と混合されているが、これら造作、機械、備品等はすべて会社設立以前に大栄商事有限会社の別口利益から取得されたものと認められるので、その取得価額は大栄商事有限会社からの借入金によつて得たものとし、売上除外によつて得た利益金はすべて同会社に返済したものとして計算する」と

主張している。右の「別口利益」「簿外財産」とは、検察官のいう別口預金、簿外の不動産や有価証券、圧縮記帳等であるが、検察官といえどもこれらの財産が、売上除外金からどのようにして形成され取得されたかの経過を説明することはできなかつたのである。

一審の審理を経た段階においては、原裁判所は、売上の一部を簿外にしたその簿外資産(検察官のいう売上除外金)によつて、これらの財産が形成され取得される筈のものでないことを認めることができたのであるから、前述のそれぞれの事業年度の差額が被告人李の個人の私財によつて形成され取得されたものであることを認め得た筈である。しかるに原判決が、売上の一部を簿外にしたその簿外資産によつて、右の差額が形成され取得されたものと認定しながら、その理由を判示することができぬことは、経験則に背反し、採証法則に違反して、事実を誤認したものといわなければならない。

(二) 原判決は「弁護人らの主張に対する判断」三において、右の如き経験則背反、採証法則違反、事実誤認がない事由を判示している。しかし、この判示こそ原裁判所の予断偏見を露呈しているものである。

(1) 「現在被告人李の個人財産と被告人会社の財産とが混合してしまいその区分がつかなくなつている」とか「被告人李の個人営業時代の資産も被告人李個人のものとして被告人会社から区分保存することをせず」と判示しているが、右の被告人会社とは、栄大商事のみを指称するのが、大栄興業をも含む意味なのか、いづれであるか必ずしも明白でない。

しかし「区分がつかなくなつている」とか「区分保存することをせず」ということは、全然理由がない。栄大商事と大栄興業の財産は、それぞれの会社の帳簿に所有財産として記載されている。

記載されていない財産は、右両会社の財産でないことは明白である。区分がつかないでいるとか、区分保存せずということは、右両会社の記帳を無視した一種のデツチ上げである。

区分がつかなくなつているということは、検察官が、右両会社の財産と被告人李の個人私財を無差別に故意に混合して、財産増減法を適用するための前提であるが、原判決も無批判に右のデツチ上げに組しているのである。

(2) 「、、、、一方弁護人ら主張の前記預金、取得資金などが被告人李の個人財産によりまかなわれたと認めるに足る証拠は被告人李の当公判廷における供述以外にはなく、、、、、」と判示しているが、右の認めるに足る証拠が右供述以外にないのは、原判決が掲記した「前掲各証拠」のうちにないということである。

一審で取調べられた証拠のうちに、被告人李が栄大商事設立前に多額の私財を有していたこと、昭和三六年まで右被告人が個人営業から多額の利益を得たこと、栄大商事や大栄興業のパチンコ営業の利益からは売上の一部を簿外にする程の利益がなかつたことを、合理的に認定せしめる証拠があることは前述したとおりであり、これらの証拠と一審における右被告人の供述を総合すれば、一審における右被告人の供述は充分信用するに足るものである。しかるに原判決は、合理的な判断を示すことなくこれらの証拠を排斥した。これらの証拠に目を向けるならば、右判示の如き結論は絶対にでてこないのである。

(3) 「そして右供述は佐藤東男作成の「所得税の確定申告書写について」と題する書面、、、、に照してにわかに措信しがたい」と判示している。これは被告人李の個人としての所得税の確定申告書の記載内容を根拠としての立論である。要するに右被告人には確定申告書に記載した金額以外には個人所得はないから、栄大商事や大栄興業に私財を投資し、個人預金を作り、その他不動産を取得すること等はできないという論理である。原裁判所は、右被告人の所得税の確定申告書の内容は信用し得るが、右被告人が統轄している栄大商事の確定申告書、修正確定申告書や、大栄興業の確定申告書の内容は信用できないという態度である。しかも、何故に前者が信用し得て、後者が信用できないかの合理的判断を示していない。

原判決の証拠の判断は、勝手気ままであるという外はない。

(4) ところが右判示と「すべて被告人会社の営業用資産としてその必要に応じて使用して来たこと、および被告人李の個人財産は本来帳簿上は、、、、そして他方では税金対策上の詐術から会社の帳簿に全取引をありのままに記帳しなかつたものであることが認められる。結局、以上の経過からすれば被告人李個人の被告人会社あるいは大栄興業株式会社への投入資産」という判示とは、どういう関係になるのであろうか。

右判示によれば、右被告人の個人財産が栄大商事と大栄興業に投資されていることを、原判決は認めている。少くとも、この大栄興業に投資した私財は、栄大商事設立当時右被告人が所有していた財産ではないこととなる。原判決は昭和三六年まで右被告人が個人として営業上の多額の利益を得ていたことを認めている結果となるのである。また「税金対策上の詐術から会社の帳簿に全取引をありのまま記帳しなかつた」とは、右被告人が栄大商事や大栄興業に対する投資を、個人の所得税の税金対策上から会社の帳簿に記載しなかつたものということにならざるを得ない。

そうであるならば、前の所得税の確定申告書の内容を援用しての判示と完全に矛盾することとなるのである。検察官の主張は、すでに六の(一)で述べたように栄大商事については「計算上個人時代からの営業のための資産はすべて会社に帰属したものとし、、、すべて李聖凡からの仮受金として処理し、会社の別口利益によつて取得した個人財産は前記仮受金の返済又は李聖凡に対する貸付金として処理する」と、大栄興業については「その取得価額は大栄商事有限会社からの借入金によつて得たものとし、売上除外によつて得た利益金はすべて同会社に返済したものとして計算する」というのである。この主張には、右被告人の個人資産の両会社への投資、特に大栄興業への投資という考方は全然ない。原判決は、財産増減法や判決の別紙貸借対照表については、検察官の主張を殆んどそのまま踏襲しているのであるが、何故に右の如く判示するのか全然判断を示さないのである。

(5) 「結局、以上の経過からすれば被告人李個人の被告人会社あるいは大栄興業株式会社への投入資産は既に被告人会社あるいは大栄興業株式会社の所有になつたものと認めるを相当とす」と判示している。

右被告人の個人資産の投資が栄大商事や大栄興業の所有になつたとは、検察官も主張していないことは既に述べたとおりである。原判決が何故にこのような判示をなすか理解することができない。それが如何なる理由であるにせよ。右被告人の個人資産の投資が栄大商事や大栄興業の所有となるならば、右被告人と右両会社との間の債権債務関係は存在しないこととなる。

従つてそれに応じて、判決の別紙第一ないし五の修正貸借対照表の勘定科目は変らざるを得ないこととなる。しかるに右の修正貸借対照表には、右両会社と右被告人との間に債権債務関係があることを前提とした勘定科目が存在する。これも原判示に内在する理論的な矛盾である。

(三) 原判決は「弁護人らの主張に対する判断」の四において、一審検察官の主張に対して判示している。その判示のうち

(1) 昭和三五年度修正貸借対照表(別表二)の銀行預金欄当期増減額△一二、八二二、八四二円

(2) 昭和三六年度修正貸借対照表(別表三)の事業税引当金欄当期増減額四〇、八五〇円

(3) 昭和三七年度修正貸借対照表(別表四)の否認税金欄当期増減額八〇円

(4) 大栄興業の昭和三七年度修正貸借対照表(別表五)の

イ、建物欄当期増減額一五六、一九七円

ロ、建物欄当期増減額三、〇四三、七九八円

ハ、構築物欄当期増減額七七、三六五円

と記載しているそれぞれの数字は、判決の別表のそれぞれの修正貸借対照表には全然記載がない。これらの数字は検察官の冒頭陳述書添付の別表に記載されている。すなわち、右(1)は冒陳別表三に、右(2)は冒陳別表七に、右(3)は冒陳別表一一に、右(4)は冒陳別表一五にそれぞれ記載されている。原判決は冒陳の別表を援用すると判示していないし、また、冒陳別表は検察官の主張の内容をなすものであるから、その別表がそのまま判決に援用し得るものでないことは明白である。要するに原判決は何等の根拠もなく右の数字を挙げて、事実認定の基礎にしている。これは明白に採証法則に違反するだけでなく、判決の別表が正確な所得を算出しているとの証拠がないことを明らかにするものである。

(四) 以上のとおりであつて、原判決の「弁護人らの主張に対する判断」三、四の判示には、予断偏見に基く矛盾撞着があるだけでなく、経験則背反、採証法則違反、事実誤認があることは明らかである。従つて、原判決の財産増減法による両会社の所得金額の計算は、正確であるとは絶対に言えない。

七、原判決の、栄大商事並に大栄興業に対する財産増減法による本件の各事業年度の所得金額は、正確に計算されたものではない。栄大商事並に大栄興業の本件各事業年度の帳簿の記載は正確であり、不正確であるとは認められない。本来、財産増減法による法人所得金額の推計は、法人税法上の行政処分である決定又は更正をなす場合のみに許されるのである。法人税法上の刑事事件であるほ脱所得金額の算出には、原則的な計算方法である損益計算法が用いらるべきで、財産増減法によつて推計することは許されない。法人税法上の刑事事件において、ほ脱所得金額と税額を財産増減法によつて計算することは、法人税法の規定に基かずして法人所得金額と税額を計算認定する結果となり、租税法律主義の原則に照して違法である。以上のことは既に述べたとおりである。

この観点よりすれば、原判決は無罪の言渡をすべきであつたのである。仮に、原裁判所が本件について多少の疑惑を持つたとしても、それは結局疑惑に終つた筈である。それは、本件の各事業年度のほ脱所得金額と税額が損益計算法によつて算出されず、従つてその証拠がないからである。

原判示は、財産増減法によつて本件の各事業年度のほ脱所得金額と税額を正確に算出認定したかの如く強弁しているが、弁護人は原裁判所がそのように確信したとは考えない。

原裁判所は、法令を適正に適用し、事案の真相を明らかにし、それにより判断する勇気がなく、あえて確信のない判決をしたものとの印象を拭いさることができないのである。

第三点

原判決は証拠の取捨判断を誤り事実を誤認して有罪の言渡をした違法ないしは審理不尽の違法があつて、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れないと思料する。

第一、原判決における事実誤認の基礎

-虚偽自白と二つの検察官調書-

一、原判示認定事実につき、罪証の資料として挙示されているものは、量的に多くかつ多岐にわたるが、それらの大部分は、ひつきよう資産の増加、変動状況に関するものであり、かかる増加や変動が、栄大商事や大栄興業の「法人税を脱れる目的をもつて売上の一部を簿外にする等の不正手段により」、「ほ脱した」か否かについては、わずかに、被告人李聖凡の大蔵事務官に対する各質問てん末書および検察官に対する各供述調書と、薗田和江および李漢成の検察官に対する各供述調書のみで、ほかにはない。あとは財産増減法という乱暴な所得推定の「理論」があるのみである。(なお判示事実全部につき、被告人李聖凡の公判廷における供述が挙示されているが、同供述はその重要部分がいわゆる売上げの簿外行為の不存在、不正手段の否認を内容としているものであるから、同供述を判示事実の認定の資料となすことは矛盾であろう)

二、ところで原判決は、弁護人の主張にたいする判断の項目で、その主張を採用しなかつた理由を若干の論点にふれて説明している。

しかし、一審公判において、最も鋭くかつ深刻に争われた被告人の「自供」調書ならびに李漢成、薗田和江の二人の検面調書の各信憑性、したがつてまたこれらの者の法廷供述や証言の評価について、何も具体的な説示と理由ずけを示すことなく、漫然と、これらの調書類を採証し、公判廷におけるそれを排斥している。なるほど、罪責認定の証拠資料の各個について、証明力のいかんにつき特段の証拠説明を義務ずけていない現行訴訟法のもとにおいては、罪証の資料を挙示することをもつて必要にして充分であろう。

しかし、それは単なる形式的理由にとどまる。刑事裁判が本質的に「公正」又は「公平」なものとして国民の信服を集めうるためには、当該事案の審理に於て重要な争点となつた事項又はその事項の判断、評価が、公訴事実の有罪無罪を左右する関係にあると言つた事実の判断および証拠の取捨選択(とくに証明力としてのそれ)の評価等については、進んで積極的に判決裁判所の心証形成過程とその理由を明らかにすることが必要であると考える。

それは叙上の理由から近代国家における刑事裁判の本質的要請といえよう。

それが訴訟法的に義務ずけられていないからと言つて、その点の理由の説明を遺脱している判決は、フエアな法感情を当事者に与えないものであり、公正を欠いているとの不信をよびおこすに充分である。けだし、右の関係における事実ならびに証拠判断の経路脈絡を公明に理由中において示すことは、事の性質上、訴訟当事者に対する判決裁判所の「訴訟的信義」であり「法と良心の発露」と考えられるからである。したがつて逆にこれを示さない判決は、判決裁判所の思惑がどうあれ、訴訟的には信義に違背する判決であり、法と良心に不忠誠な、かつ確信のない卑怯な判決との非難を免れないものである。

しからば果して原判決は、よく右の非難を免れうるか。いな、いな、断じて否である。原判決はまさに右の非難に値する判決の典型といわざるを得ない。

すなわち、争点の証拠判断について結局は結論のみを挙示してほうかぶりし、なにゆえに同一人物の真実の表白において、一方を信用できるとし、他方を証明力なしとして排斥するのであるか-具体的な評価の根拠を原判決は黙して語らないのである。

弁護人は原審裁判所の態度を、遺憾ながら、つよくかつ断乎として非難せざるを得ない。それは単に証拠説明にかんする重要な指摘や理由が示されなかつたというにつきるものではなく原判決が、有罪認定の決定的資料として採用した被告人の虚偽「自白」調書と李漢成、薗田らの二つの検面調書は、不正な供述誘導工作の結果、創作、迎合によりできあがつた証拠であつて、措信すべからざる資料であるにもかかわらずこれを信用した結果の重大な事実誤認についてである。以下に弁護人は原審裁判所が犯した採証法則違反の実態、とくに一連の供述調書と公判廷における供述、証言のそれにしぼつて論証することとする。

第二、不当かつ不法な捜査過程

-人権侵害にわたる逮捕、勾留-

一、薄弱な逮捕の理由と必要性

-被告人に対する非道な苦役-

(一) 一般に虚偽自白と供述は、捜査機関の過剰な強制捜査権の行使、とくに不当な逮捕と勾留およびその継続のなかから生まれる。

それが「誤つた起訴」と「誤つた裁判」の出発点であり、基礎ともなる。

本件は被告人の虚偽自白を土台として二人の証人の虚偽の供述調書を補強証拠として、起訴と裁判が行われた。

虚偽自白と不実の供述を余儀なくせしめたものは、本件においても、いうまでなく、捜査機関の連合による(国税当局と検察権力)不正な権力の行使にほかならなかつた。以下に若干その点を指摘しよう。

(二) 本件捜査は、直接的には昭和三八年三月一八日、栄大商事外八ケ所が国税局によつて捜索、差押えが強行された。同日、栄大商事と大栄興業の現金管理業務担任者であつた李漢成、薗田和江の両名が、従前にひきつづき、甲府税務署に出頭を求められ、査察官の任意取調べをうけた。

被告人李も翌一九日、数回目の任意出頭を求められ、右同様の取調べを受けた。

右関係者の供述するところは、いずれも、売上金除外行為は存在していない状況と根拠を具体的に査察官に説明したものであつた。

しかるに三月二三日に至り被告人李が、同月二七日には李漢成、同月二八日には薗田和江が相次で逮捕されれるという、一連の強制捜査の進展をみるに至つた。

(三) ところで被告人に対する逮捕の理由は令状によれば、栄大商事については昭和三六年九月一日から、三七年八月三十一日までの事業年度の法人税ほ脱容疑を、また大栄興業については、昭和三七年一月二七日から、同年八月三一日までの期間における法人税のほ脱容疑を各内容とするものであつた。そしてそれら被疑事実及び逮捕の必要性についての疏明資料として添付されたものは

1. 大蔵事務官の内偵報告書

2. 同 法人税決議書

3. 同 査察調査経過報告書

4. 銀行関係調査書類

5. 被疑者質問てん末書

6. 差押調書類

7. 確定申告書

等であつた。しかしそれらはいずれも右両会社と李聖凡個人の資産の増加、異動状況、申告状況等を示すにとどまり。とくにいわゆる「売上げを除外する等の不正手段」の存在については、全くこれを推認する資料とはなり得ないものであつた。尤も、1.の内偵報告書は、一審において弁護人の提出、開示要求にもかかわらず、検察官は何故かこれに応じなかつたので、右資料を内容的に知りうる機会が与えられなかつたが、それは税務当局の予断偏見に出る一方的な不合理な推測資料でしかなかつたと思料される。したがつて、右にみたように、被告人のほ脱の意図や不正手段の存在を推認する資料は、身柄拘束時の段階に於て、具体的、客観的になかつたのである。

(四) ただ僅かに表見的にこれに関係した資料と解せられるのは、この「査察調査経過報告書」にすぎない。

しかし、右報告書に挙示されている六つの事由については、それ自体、客観的事実と著しく相違している事実の誤認であるか、もしくは不合理な独断的推定ないし虚偽の評価であつて、到底、逮捕の必要性を理由ずけるに足りうる根拠となりうるものではない。この点は一審弁論において、小沢弁護人が詳論(誤つた捜査と起訴二の(四)以下)したので、ここではこれを援用し、くりかえさない。

ただ、右「査察調査経過報告書」のなかで、「三月二十日、午前十時三十分に、税務署に出頭するよう要求したが、病気を理由に出頭を拒否した」という事項が、逮捕の必要性の一事由とされている点について、とくにその虚偽性と不当性を明らかにしておきたい。

なぜなら、この点が、被告人李の逮捕を強行させ、虚偽自白を生む根源になつたからである。

もともと税務官吏の呼出調査は任意調査であつて、法律上出頭義務はないから、出頭しなかつたからとて、これを逮捕の事由とすることは許されない。本件に於てはそのことよりも、査察官が、被告人李の加療中のことを知つていながら、報告書には「三月十九日、査察官が被告人を取調べた際、被告人には異常を認められず、出頭に応じられない状態ではなかつた」と記載して、司法機関(令状発布権者)をして、あたかも被告人李が病気を口実にして、出頭を拒んでいるかの如く作出し、被告人李がほ脱容疑事項について、不正な犯意の持主でもあるかのように、えがき出している点である。査察官のこのような悪意にみちた詐術が本件に於て、当初から施用されたことを、弁護人は注意したい。ここには被告人李を何が何んでも逮捕し、処罰を加えねばやまないある種の政策的不純な意図が、つまり黒い意図が捜査当局の側にあつたことを窺うに充分である。

(五) ともあれ、当時、被告人が悪化しつつある糖尿病にどんなに悩まされ悪戦苦闘していたか、専門医の加療と指導のもと、辛じて生命を維持していたか。

それらの点は被告人李をとりまく周囲の関係者が、いちように熟知していたところであつて、仮病でもなんでもない、むしろ事態は重篤な方向で危険を増加させつつあつたのである。

被告人李の法廷供述はそのことを明快に物語つている。

問 当時の健康状態は

答 三十年から糖尿病ですから、あの当時、自宅で食事療法とインシユリンの注射をしながら、、、

問 一日のうちで寝て過すのが、どのくらいの時間ですか

答 大体、お昼まで、寝ていました。

問 逮捕される前に査察官からの呼出しをうけて、取調べ受けた機会がありますか

答 甲府税務署へ数回呼ばれて行きました。

問 一回の取調べ時間は

答 長かつたですね、夜大体、十時頃まで

問 朝は

答 十時から夜の十時ころまでですね

問 そういうことで、あなたの体は、悪い影響受けたことはなかつたですか

答 もう、とても具体悪くて調べ室で横にならしてもらつて、実情わかつてくれて、三十分位横になつて又起きて聞かれたり、そんな状態でした。

というのが、査察官の任意調査を受けた頃の偽わりない実相である。査察官が、当時、被告人李の容態について「異常を認められず」とは白々しい虚偽というものである。査察官が当時すでに被告人李の病弱を知つていたのは、右の点につきるものではない。

問 査察官があなたの自宅に来たことがありますか

答 あります

問 その取調べに応じたことがありますか

答 あります

問 査察官に対して、あなたの病状を告げて、取調べの機会を延ばしてくれということを申し述べたことは

答 電話で家内がかけました

問 査察官はあなたが普通の健康状態でないということ、認めたようですか

答 家内のいう話では私、奥で寝ていましたから、十時半に行くことになつていましたが、九時一寸過ぎに医師の診断書をもつてお伺いします、という電話をかけたんです。そしたら査察官が四、五人でとんできたんです。風呂敷包もつて。家内が応待しまして、実状訴えたら、そうですか、困つたな、三、四日、医師が安静にさせてくれということで、よくなつたら連絡します、と言つたら、お大事に、連絡してくださいと言つて査察官が帰つたそうです。

(六) 事態はきわめて明白であろう。

被告人李の右の法廷供述が真実であることは、三月二三日逮捕されて以後、刑務所当局や警察当局におけるあるいは裁判所の鑑定処分等の一件証拠資料を通じ、充分裏ずけに足りうる証拠は多数ある。

右最後の部分の被告人の供述は、査察官の来訪が何日であるかは、明確を欠くが、前後の経緯をみれば、おそらくは、それが、「三月二十日午前」の出来事であつたことはまちがいない。こうして、査察官は、被告人が出頭にもたえられぬ容態であることを知りながら、それから わずか三日目の三月二十三日に突如、検察官をして逮捕状の執行にふみきらせているのである。

これは人道的にも著しく不当なやり方ではなかろうか。

義憤を覚えざるを得ぬ暴挙ともいえよう。

果せる哉、被告人李は加療病臥中を不慮の衝撃を受けたため

「逮捕されていくとき、具合が悪くなり中央病院に寄つて注射してもらつて行つたんです」(被告人李法廷供述)

という程、病勢の悪化をとどめようもなかつたのである。

しかも、警察に二日間、留置されている間も、手当を求めたにもかかわらず、なんらの手当をも受けさせず、放置してかえり見なかつた(被告人李の法廷供述)

したがつて、その後、刑務所の未決監に入るのが一般の未決因の取り扱いであるところ、被告人李は、すぐ病棟に収容されたのである。

(七) のちに虚偽自白の形成過程の項において、論ずるであろうように、被告人李の急迫した病勢の進展悪化に、適切な治療や保護の設備や環境でもない刑務所内においては、この種の患者を、かかる施設に放置、収容しておくこと自体、その者に対しては非人道的な苦役であり、拷問の一種とさえ言つてもよいのではあるまいか。かようにして被告人李に対しては、なんらの科学的な食餌療法も適切な治療方策も講ぜられないまま、三月二五日にはさらに勾留状が発布せられ、被告人李の精神的、肉体的限界をこえる人身の拘束が続けられるに至つたのである。

そして鑑定の結果「現在の拘禁下の医療も、短期であれば止むを得ない」とはいえ、「このことについては医師としてそれが許される事であると断言する事はばかるものである」というほど、鑑定医も、拘禁下の医療責任はもてないと見解を表明しているにもかかわらず、その後、十余日にわたつての拘禁をさらに継続せしめる、という責苦を被告人に強制したのである。

以上、一連の経過を考慮すれば、税務官吏の虚構の前記疏明資料に端を発する逮捕、勾留は、あきらかに不当不法であり、それはたゞ、病弱である被告人李を拘束してその脅威のもとに困惑する被告人李を好餌として、思惑どおりの自白をさせることにあつた、と言つてよい。

これは、なんたる卑劣な手当であろう。その結果、できあがつた「自供」調書はそれがどんなに真実らしい言葉で語られ、装われていてもやがては偽まんと虚構の創作であることを露出し、その正体を曝露せずにはおかないものである。

二、李漢成と薗田に対する逮捕権の濫用

-共謀共同正犯の不当な拡張と適用-

(一) 具体的な容疑と証拠にもとづかぬ現金管理者への逮捕李漢成の逮捕は三月二七日、薗田のそれは翌二八日であるが、右同人等に対する逮捕、勾留の容疑事実とされているものは

「被告人李聖凡と共謀し、会社の業務に関して売上げを除外する等の不正手段により、、、ほ脱した」

というものである。

そして右被疑事実が存在するとして添付された逮捕状請求時の疏明資料はさきに弁護人が引用した被告人李の逮捕資料と全く同一のものが利用されたのである。

それはいずれも両会社と李聖凡の資産の増加、変動状況、申告状態、その他李自体に対し向けられた一件資料にとどまつており、李漢成や薗田の前記被疑事実の存在を具体的に推認せしめる資料は、何ひとつ存在しなかつたのである。すなわち、「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」の存在については、きわめて怪しいものであつた。けだし、右両名の査察官に対する質問てん末書の記載内容も、一貫して、売上げ除外行為の存在せざることを内容とするもので、また、この時点においては、未だ被告人の供述も得られない状況であつたから、右両者らを被告人李、ないし両会社のほ脱の共同正犯として位置ずけ、構成することにはいかなる点からみても全く法律上の相当な理由はなかつたと言つてよい。

のみならず、もともと李漢成にしても薗田にしても、遊戯場経営を目的とする事業会社の経営者でもなく、一介の被傭者に過ぎない。

したがつて、法人の年間所得を算定して所定の申告をなす義務もなく、さような地位や立場にいないのであるから、かような者に対しては、ほ脱行為の共犯として、しかも共謀による共同正犯として、その罪責を問議すること自体、法律上ムリがあり、これは刑事実務の常識をこえる不当な強制捜査権の濫用といわなくてはならない。

それでは一体、捜査当局は、何を根拠に右両名の逮捕を合理化しようとしたのであるか、捜査主任検察官山同証人は証言する。すなわち、

「売上げ除外ということがまず考えられる。それには現金の保管者である李漢成という者が、なんらかの形で加担しているのではないかという疑いから出発して、、、それらにかんする報告書などがありました。中略、現金管理者が薗田であるということからこれは全く同一の資料を相互に共通して使用したと思います」

右証言によれば、李漢成や薗田は、結局、同人等が両会社の「現金管理者」なるがゆえに、強制捜査の対象とされ、被疑者とされてしまつた形跡が顕著である。山同証人は「それらにかんする報告書などがありました」というが、検察官が、弁護人の要求により、また裁判所の勧告をうけて公判廷に提出した一件疏明資料のなかには、さような加担行為の方法、手段、態様などについての証拠は全くみられないのである。かりになんらかの資料があつたとしても、それは「疏明」に値いしない憶測や独断に出るものであつたとしか、諸般の情況から考えられぬ以上、ほ脱という犯罪行為に具体的に加担したか否か、加担行為自体についての合理的疑いに欠けたにもかかわらず、敢えて不当にも人身の拘束に及んだものと断ぜざるを得ない。なるほど社会的にみれば、被告人が売上除外をしてほ脱したと仮定すれば、現金管理者もこれに関与し、加担して云々という容疑は抽象的には事犯の特殊上、考えられぬでもない。しかし、それはあくまで一般的想定以上のものではない。現金管理者を強制捜査の対象にするには、法律的に相当性の嫌疑とそれを肯認するに足りる疏明資料の存在が必要であろう。

以上のことは当然の事理であるが、本件においては、具体的な加担行為の有無、方法、態様について、なんらの資料もなく一方的に、共同実行々為者として、認定し、逮捕を強行したのは、以上の経緯にかんがみるときは、明らかに不法、不当な強制捜査権の濫用であり、実質的には経済事犯に藉口した人権侵害行為としての非難を免れない。

かような単なる現金管理者の地位を有するに過ぎないこれらの者が、まさに実質的にはそのゆえに突如、検察庁に任意出頭を求められ、同庁に於て逮捕状を執行するという、なかば詐術的逮捕、だまし打ち的逮捕を強行されたうえ、勾留による身柄の長期拘束と接見禁止という決定的な処遇をうけたことに対し、右両名らが、「身に覚えのない不当な逮捕、拘禁」であるとして異常な衝撃をうけ、あるいは抗議したのは-黙否供述拒否というかたちを含めて-まさに当然のことであつた。

このような本件捜査のやり方、特徴は必然的に、強引に被疑者とされた李漢成や薗田から頑強な抵抗を受け、その結果、捜査官憲が、容易かつ正常な取調べ手段によつては自供が得られないという困難に直面したのも当然の事理といえよう。けだし、事実、被疑者たり得ない者から自白をうることは、それ自体、不合理なことだからである。

しかし、その不合理性を、しやに無二に合理化してまで、右両名らから、売上げ除外についての補強証拠を得るために強制捜査を敢えて行なわざるを得なかつたところに、もともと本件を法人税のほ脱事犯として、またかかる共謀共同正犯として一方的に嫌疑ずけた捜査当局の政策的露骨な意図が看取され得よう。

(二) 捜査官による虚偽自白形成の構想と過程

本件捜査の経過をみると、捜査官憲は、現金管理者たる両名が、両会社の売上げ除外行為に、加担していたものとの偏見と予断をもつてのぞみ(いわゆる見込捜査)その自供を求め、かつ期待し、それらの自供-情況証拠を武器として、被告人李の自供を促す=そして事件全般に対するほ脱容疑を確証せしめていく。これが捜査当局の狙いであつたと考えられる。尤もそれは第二次的な想定であつて、当初は被告人自身をして身柄拘束の当初の段階での「自白」を期待したといえよう。なぜなら逮捕は三月二三日であつて、他の両名よりは数日間も早やかつたからである。ところが、被告人李については収容にも耐えかねるという極度の病状の悪化に災いされ、右の当局の構想は一頓挫を来したのである。

そこで前記三月二七、八日に至つて、急拠、李漢成、薗田の強制逮捕にふみきり、右現金管理者をして「自供」させこれを有力資料として、李聖凡自身を追及するという戦術転換に及んだ、といえよう。

ところが、捜査当局はこれら現金管理者らの一貫した否認の態度、頑強な抵抗に出会つて、その供述が全く得られないという窮地に追い込まれたのである。

しかし、結局、主役とされていた被告人李自身の一身的事情に基因する「自供」が先行した結果、逆に右「自供」調書を、否認している現金管理者への自供を迫る武器に利用するに至つた。

これは捜査官による虚偽自白形成の手口であるとともに、その過程でもある。

こうして得られた李漢成、薗田の各検察官に対する供述調書は、形式的には被告人李に対する関係では-とくにほ脱行為の存否にかんして-決定的な補強証拠として位置ずけられ、一審判決も有罪判決の有力な基礎とした。

しかし、のちに詳細に論証するように右検察官に対する各供述調書は、真偽それぞれ混在しているが、いずれも売上げ除外行為を自認する限度に於ては、捜査官が、すでに虚偽自白をしている被告人李の供述を前提とし、これを台本としてこれに全面的に依拠しながら、それを適宜李漢成や薗田の役割にふさわしいように、それらの者の供述調書の作成にあたつて、相応に焼き直し、ひきうつし、あるいは必要な創作的加工を試みて、その結果できあがつたものにほかならない。それゆえ、かかる検察官供述調書が、その証明力について著しく措置しがたいものとして、排斥さるべきは採証法則上、当然の論理であり、判断である筈である。しかるに原判決はこれに違背し、全面的な有罪をもつて被告弁護人らの主張を排斥した。しかし、李漢成や薗田の検察官面前調書の信憑性が断乎として否定され、かれらの法廷証言こそが事実の光り輝やく価値あるものとして、措信されなければならないことは以下の論証によつて明白である。

ちなみに、捜査当局が、右現金管理者らを、ほ脱行為の共同正犯をもつて問擬し、その罪責を問おうとした試みは、ほ脱の意思ないしは目的に欠け、また、申告義務者でもないところから、訴追処分に至ることなく、落着した結果の裡に、もともと捜査当局が現金管理者らに共謀共同正犯の容疑をかぶせたことの失当であつたことが如実に示されている。つまり、犯罪の嫌疑なき不起訴処分として落着させざるを得なかつたところに、一方では多分に政策的捜査の実態が窺われ、他方、強制捜査の行過ぎた実態がよみとられるのである。

第三 被告人李聖凡の「自供」調査の信憑性

-虚偽自白形成過程とその手口-

はじめに

原判決が判示事実の全般にわたつて、被告人李の一連の自供調書を、罪証の資としているのは、本件に於ては特段の意味がある。

それはもともと法人税ほ脱犯罪の訴追が自供なくしては、不可能もしくは困難であること、したがつて自供があれが、それにたやすく便乗して公訴犯罪事実を容認する傾向のあるのが、一般であり、とくに原審裁判所のとつた態度は審理の過程でも窺われたように、この自白依存傾向が特徴的であつた。

しかし、被告人李の公判廷における供述よりも、捜査段階における勾留中の被告人の自白調書を信用した原判決には、採証法則上、きわめて顕著でかつ救いがたい矛盾がある。

原判決があえて、審理過程で重大かつ、決定的争点であつたこの自白調書の信憑性について被告弁護人の主張に適切な応答を示さず、いわば黙殺し去つたのは、自白内容の不合理性についての弁護人の指摘に正当な解明が与えられなかつた苦悩の表現としか考えられないものがある。

それほど、被告人李の自供調書は救いがたい矛盾と不合理にみちており、被告人李の固有かつ現実に体験した事実の表白とはみられないものである。

また、原判決の挙示する被告人李の自供調書なるものは、査察官の作成になる質問てん末書四通、検察官に対する供述調書四通の計八通の多きにのぼつている。

いま、その作成過程を身柄の状況との関連において一覧すると、次のとおりである。

38・3・23 逮捕

3・24 甲府警察署留置場に在監

3・25 勾留決定、甲府刑務所病棟に直ちに収容

3・28 弁護人、拘留決定に対し準抗告の申立

3・29 裁判所、被告人の病状につき鑑定命令、即日、鑑定施行

3・31 検察官供述調書(第一回)

38・4・1 査察官質問てん末書(第一回)

4・2 査察官質問てん末書(第二回)

4・3 検察官供述調書(第二回)

4・6 査察官質問てん末書(第三回)

4・8 査察官質問てん末書(第四回)

4・11 検察官供述調書(三回)

4・12 右同 (四回)

4・13 釈放

これら一連の供述調書が、虚偽自白を内容とする-とくに売上除外行為の存在、手段、方法、態様、程度等-ものであることは、すでに一審において相当の解明を遂げ、かつ弁護人も強く主張したところであつた(平井弁護人の弁論要旨三参照)。

虚偽自白とはいえ、それは検察官、査察官の誘導と被告人の迎合による合体の結果できあがつたものであるから、もとより真偽混合の内容で構成されていることはいうまでもない。

しかし、虚偽自白の決定的動機が、『3・31付検察官の供述調書』において論を発していることは、その後における一連の「自供」調書の信憑性を判断するに当つて重要である。

つまり、4・1以降の「自供」調書は、すべて-検察官のそれであると査察官のそれであるとをとわず-『3・31・検面調書』を基本的には前提とし、これに依拠して全面的に発展せしめられ、詳細かつ具体的になつているのが特徴である。

したがつて、一連の「自供」調書の基礎にある3・31検面調書の信憑性如何が、その余の供述調書類の信憑性にも決定的に基本的には依存している関係にあるので、弁護人は、まず以下に於ては、3・31検面調書の信憑性について検討する。

一、迎合供述を余儀なくさせた重篤な病状

(一) 否認から一変「自供」した動機

被告人李が検察官の求めかつ「欲しがつている」売上げ除外行為を自認する供述を行つた、とされ、その旨の検察官面前調書が作成されたのは、三月三十一日のことで、逮捕、拘禁されて以来じつに九日目のことである。

その間、悪化する病勢と斗い、否認してきた被告人が、なぜ三月三十一日に至つて、突如、検察官の期待にそう供述をなすに至つたか-被告人李は公判廷で次の如く、当時の実相を吐露している。

「私は三十年から糖尿病を患い、当時は自宅で食事療法をしながら、インシユリン注射をしていた。

査察官の調べは長く、とても具合悪く調べ室で横にさせてもらつて三十分位横になつて、また起きて聞かれるという様な状態であつた。

その当時、医者からも安静を言渡されていたものである。

逮捕後は満足な治療も受けられず小便のしどおしで頭が痛くてねむれなかつた。

私としては一番悪化している状態であつた。この様ななかで売上げを抜いただろと拗 にせまる、あのときは頭が割れそうで、体も参つていたから、とに角、売上げを抜いているということによつて、早く出たい、真実でないけれども早く出たい、検事はそれを欲しがつているのだと考えるようになつたのです。(後略)」これは明白な検察官に対する虚偽の迎合供述といえよう。

(二) 連日入院治療を要する重症状態

-非暴力の拷問としての不当な拘禁-

被告人李の右供述から窺われる当時の被告人の病状は一体どれ位の要保護状態であつたか。

これについては、証拠として取調べられた準抗告申立書、診断書の記載、及び裁判官の病状鑑定の嘱託による大関医師の鑑定書がある。

こころみに逮捕前後の被告人の病状については、右診断書が明らかにしている如く、「糖尿病のため三月二十日以后、成島医師のもとで加療中であつて、三月二三日の県立中央病院における空腹時、血糖の測定時は三三〇mgにて重症のため入院加療を要す」とある。一方、鑑定書によれば「主な自覚症」として、口渇、多飲、多尿、全身倦怠、不眠、激しい頭痛、食思不振が掲記されている。被告人の前叙、法廷供述は、既にこれらの点において客観的事実と完全に符合して、その真実性が充分保障されているのである。

鑑定書の意見は、そのため「さらに強力な医療の要あり」として「厳重な食餌療法下、毎日尿検査を行い、医師の注意深い観察の下にインシユリン注射等の療法が行わるべし、、、」として入院加療の必要を説いている。

尤も同意見書は「現在の拘禁下の医療も短期であれば止むを得ないとも言いうる」としているが、他方では「拘禁が長期に及ぶことは症状の増悪を招来する可能性があり好ましくない」とし、さらに、短期であれば云々の評価も「医師としてそれが許される事であると断言することははばかるものである」と附言して、刑務所病監での加療状態を可及的速やかに変更することが、人道と医学的立場から必要である点が繰返し強調されているのである。

被告人李が呻吟していた糖尿病は、病理学的にみて「不安、憂慮、恐怖、家族の不幸、外傷、経済的失敗等の精神的シヨツク、感情の激動により誘発され増悪することがある」というのが、専門医学の説くところ(質問状にたいする回答)である。とすれば、生れてはじめて逮捕、勾禁の処分を身に受けた被告人李の精神状況は、公判廷で同人が「頭が割れそうで、、、私としては一番悪化している状態」と供述しているのも当然のことと理解されるのである。このように被告人李の当時における精神的、肉体的条件と状況は、悪化している自己の健康、身体の安全を守り、ひいて生命の危険さえ、脅やかされる本能的意識のもとで、他の何ものにもまして優越的に顧慮したものは、一刻もはやく、身柄の拘禁から免れたいということであり、検察官が強いてそれの取引条件を出して迫れば、何んの抵抗や、ためらいもなく、それに妥協し、即応するという迎合的心情だつたのである。

このことは吾人の経験則にも合致した自然の心理である。そして被告人李のうけた逮捕、拘禁の継続九日間は病弱の同人にとつては人間の忍耐度、持久力の限度をこえる苦役であり、非暴力の拷問でさえあつたのである。検察官は同人の弱り果てた頃を見はからつて、売上除外行為の自認とひきかえに釈放を暗示したのである。

(三) 事務員らの逮捕と経営破綻への集慮

被告人李の身体的諸条件が、以上のように異常な状態にあり、いわば迎合的に虚偽自白の地盤がつくられた際に、同人をして、さらに自暴自棄的にそして積極的に迎合供述への決意を形成させたものは、李漢成と薗田が逮捕され、店舗の正常な日常的維持が不可能になることを覚知されたときである。即ち、

「しかも弟と薗田までが逮捕されてきていることを知るに及んで、検事の欲しがるものを与えて、一日も早く釈放になることが先決だと重大決意をするに至つたのです。

私が検察官に迎合する供述をして、その迎合供述中で弟や薗田は知らない事だとすれば、二人も助かるのではないかと思つたのです。そして店も社会的信用を維持することができると思つたからです。とも角この儘では本当に死んでしまうんではないかと思い、検事にもこのまま死んだらどうなるのか、と問いつめる様な体の状況にあつたわけです」(被告人李の公判廷供述)という点が決定的動機となつたと言えよう。とくに無実であること明らかな李漢成や薗田までが、被疑者の汚名を着せられ、捜査官の追及にさらされる、ということは雇主であり経営者としては胸をかきむしられる思いであつたであろう。被告人李はその点について

「弟や薗田の逮捕は考えてもみなかつたんです。それはやはりそういうことをしなかつたことで疑いをかけられて逮捕されたということですから、かわいそうじやないですかね。しかも弟はともかくとして、女事務員まで逮捕されたということはほんとうにかわいそうですからね。これは困つたなと自分の体もさることながらそこで重大決意をしたんです」

と供述しているが、右供述の真実性は被告人の『3・31検面調書』で、「駅前の方は私の弟が売上げを計算し、錦町の方は薗田和江が計算しますが、計算している時に私が抜いてしまうのであります」(同調書四項)というかたちで弟や薗田は被告人李が「抜く」のをはつきり知らないように供述していること、4・1質問てん末書ではいつそう明瞭に「両店の会計責任者にはわからない様に私が自分で現金を抜いていたのですから、多分他の者にはわからなかつたのではないかと思います。私が自分で金を勘定する様なふりをして、今日は銀貨が多いなとか、何とか言いながら金を扱うのですからそれは誰が見ても自然であり、そのようにしているときに現金を扱いてしまうので、誰もわからないわけです」

(問二)というように、弟や薗田が無実の罪で責を問われないようにとの被告人の誠実な配慮に出る供述と照応し、虚偽自白の動機には客観的に首肯すべき情況的保障があるといえよう。

ところで、被告人李が病監に拘禁されている身で、弟や薗田の逮捕を知つたのは、刑務所内の服役因の一人から被告人が頭を刈つてもらつているときにその服役因からきいたのである。(被告人の公判廷供述)それが『3・31の検面調書』が作成される前であることは窺うに充分である。

(四) 虚偽自白を擁護する検察官の寄怪な論理

一審検察官は被告人李が公判廷で、検察官供述調書が虚偽の自白として供述記載されるに至つた動機にかんする事情を説明したのに対し、あれこれの言説をもつて虚偽自白の擁護に努めている。

その一は当時被告人李が真実弟や女子従業員が逮捕、勾留されたことを知つていたか否かについて疑問だという。

しかし、既に論証したように弟や薗田の身を想つて積極的に作為的供述に出た形跡が、さきに引用の二つの供述資料に歴然と反映され、日時のタイミングも合致する点などからも、法廷供述の信用性は否定しがたいものがあろう。

その二は両会社には宮田ら営業に関しての支配人もおり、被告人李が身柄を拘束されていても営業上支障を来すことはない筈という。しかしこれも営業の実態をみない机上の空論である。薗田と李漢成はそれぞれの店の現金管理者で日常収支の直接の責任者であり、メーターと売上額を照合、点検する重要な役割を果す。李漢成は従業員の監督責任もある。経営責任者であり総括指導者でもある被告人李もいない。とすれば店の営業と経営はさながら無政府状態となる。李漢成はこの点にふれて

「機械の調整もできないし、責任者が監督していないと玉の不正も出てくる」

と証言しているが、被逮捕者三名の果してきた日常業務における地位な役割をいちべつすれば、検察官の言辞がいかに失当であるかが明白であろう。

その三は被告人李が「自供」に先立つ三月末頃に刑務所内の床屋に行つたとすれば取調べを受けた当時、防禦権を行使し得ない程の健康状態ではなかつた、とする点である。しかしこの点も検察官の論旨は理由がない。けだし、症状の増悪しつつあつた被告人の病状も終始間断なく「激しい頭痛」にさいなまされたり、「頭が割れそう」なわけではなかつた。

九日間も在監している間には、とくに鑑定以后、身柄の安全な保護監督について責任のある行刑当局がきわめて不充分、不完全ながら病監医療を継続している過程のなかでは、特に、気分もそれ程不快にならず、あるいは気分転換の一助に手入れも届かぬ頭髪の調整を求め、床屋にいくこともあり得るであろう、これは不潔な監房に閉じ込められた者でなくとも、人間生理の経験則ではなかろうか。

したがつて、この程度の一断面をとらえて「防禦権を行使し得ない程の健康状態ではなかつた」などというのは、単純皮相な評価であるばかりでなく、一件記録によつて充分立証されつつある糖尿病患者の実態をわきまえない暴論といえよう。

その四は「被告人李の犯則行為についての自白内容は、李漢成、薗田和江の検察官に対する供述調書の犯則内容と概ね合致している」という「論理」である。

しかし、この点はさきに捜査の不法性の項において述べたとおり、また、のちに詳論するように、検察官の論法は完全に順逆を誤まつている。本件捜査の一連の過程でわれわれが解明し論証した結論に従えば、被告人李の虚偽自白(犯則行為について)が他の二名の供述に先行して作成され、他の二名の供述調書は、既にできあがつている被告人調書の供述記載を台本としながら、これに符合させて作成されたものである。したがつて、供述調書の犯則内容が「概ね合致している」のは当然の事理であり、この故をもつて被告人調書の(虚偽自白を内容としている)信憑性を説くのは、“盗人猛々しい”の類いの筆法で笑止千万というべきである。

二、いわゆる売上げ除外供述の仮空性

(一) 偽装された心境供述

被告人李の『3・31・供述調書』の冒頭部分には、随所に「これから本当のことを申上げます」とか「突然、逮捕状で逮捕されるようになつたので、遂反抗して、本当の事を穏す結果になつてしまいました」という、いわゆる心境供述がみられる。これが同人の真意に発するものでないことは、同人が公判廷で、弁護人の間に対し

「真実でないことを、真実のように迎合させるのは、そういうこともやはり書かなくちや誠意がないと、真実味がないと思つたから、そういうふうなことも書いたんじやないかと思います」

と述べ、また

「そのときにそういう答をしなければならないような質問があつたと思うんです。だからやつばりそんなような答になつちやつたと思います」

と述懐しているところによつて、その一端が窺がわれるのである。

このことは一方に於て、逮捕いらい九日目に、従来、否認していた被告人李が、はじめて供述し、しかも売上除外行為を自認するという調書が作成されるのであるから、検察官としては、いわゆる心境供述を同人の当時の心理を憶測してそれを冒頭に記載する挙に出たことは、調書作成の技術として当然のことであろう。検察官の側は意識的にその供述内容の信用性を仮装するための、いわば枕言葉として、前記の如き適宜な心境供述を盛り込んだにすぎない。他方、被告人李の側においては、既にみたような理由で、積極的に迎合供述をしてでも早期釈放をかちとろうと、虚偽自白の内容についてあれこれと着想を練り、構想をめぐらし、答弁を用意するほどであつたから、いわゆる心境供述についてもなかば以上、検察官の納得しそうな文言を用い事情説明に及んだのが、供述経過の真相であるのである。

したがつてそれはいわば、被告人李自身によつて案内され偽装された心境供述であるのであり、検事はまた右に述べたような自己の巧利的心情から、これに便乗しさような供述記載になつたのであるから、かような心境供述の存在のゆえに、供述内容の信用性ないしは真実性を云々することは、それ自体矛盾であり、無意味な論証といえよう。

そして心境供述が真実性を有しないことは、何よりも売上除外行為を中心とする供述内容自体の検討によつて、馬脚をあらわすことになる。

(二) 「売上除外」論の背景

-資産増加の根源をめぐつての二つの思惑-

被告人李の「自供」調書の特徴は、資産増加の原因があげて、両会社の収益のゴマカシだ-という徹底した基調によつてつらぬかれている。たとえば、

「私はこれまで私が裏預金していたり不動産を買つた事について、大栄興業株式会社や有限会社西村商事の売上げと関係がない様に申上げましたが、実はこれ等の中、相当部分が店の売上げから出ているので、、、」(3・31・調書一項)

とか

「斯様な訳で税務署に申告した所得より実際には所得があつた事は事実であり、其の帳簿に上つていない所得は私が個人的に裏預金にしてあり、不動産を買つたりしておりました。この様な金は店の売上げの中から、私が自分で現金を抜いてしまい、其の残りを帳簿に記入する訳であります」(3・31調書四項)というのが、その一例である。同旨のかような「売上除外」論はこのほかにも38・4・1・質問てん末書問一、二、38・3・検面調書二項三項、38・4・6・質問てん末書問二-六のほか随所にみられる。

これはいわば、個人の事業と収益および資産否認論にたち、資産増加の原因をすべて両会社収益論に機械的に一元化し還元させ、簿外利益をはかつた-とする論法である。これは国税当局が当初から予断、偏見をもつて見込んだ路線であり、売上額の算定に於ては、統計表を用いるという驚くべき奇術を使つた。

捜査当局も当然のことながら、国税当局の見込路線を盲目的に ついで、しやに無二に、この見込路線の具体化と肉付けを、被告人李に迫り、李漢成や薗田には、それへの「協力」を促したのである。

捜査当局の見込路線をして被告人李に押しつけ、屈伏させるためには、被告人李の個人としての収益源に一切目をつぶる必要があつた。もし、個人として多大の収益を有しそれが資産増加に相応する資金の源となつているならば、「見込路線」は崩壊せざるを得ない。捜査当局の致命的弱点は、売上げを抜いた、という直接的証拠が入手できないことと共に、個人収益圧殺論が、崩される危険のあることである。

このために捜査当局は、執拗かつ必死になつて、被告人李の調書のなかに、個人事業による収益はなかつたことを、随所に盛り込んだのである。

たとえば、パチンコ遊戯場経営による利益について、錦町開店以前は、あまり儲からなかつた、という方向に供述を作出したり、また

「従つて昭和三二、三年以降は、私の収入というものは総て西村商事のパチンコ営業の利益から、生じたものである事に相違ないのであります」(38・4・3検面調書三項)

と確認の供述を作出しているのがそれである。

ところがこのような、いわば個人収益源否認-両会社収益唯一論-売上除外説は、捜査官の頭のなかだけで「つくられた想定」であるために、一審公判に於ては、たちどころに破綻した。すなわち、いわゆる連発禁止(昭和三〇年四月)になるまでは、遊戯場の個人経営によつても、きわめて多大の収益をあげていた事実が、あかるみに出(一審上田弁護人の弁論要旨二項)さらに被告人李にはパチンコ営業のほかに、個人として昭和二五年頃から同三六年に至る間、パチンコ機械販売業を営んで、巨大な収益を得ていたことが、これまた立証された(一審、平井弁護人、弁論要旨二項)。

これら若干の論証によつて明らかなように、被告人李の一連の供述調書中の、個人の事業上の収益の否定に出る供述部分は、それが著しく客観的事実とも矛盾する虚偽の内容であることが解明され得たとおもう。

このような、明白な虚偽自白は、検察官の盲信する「見入路線」の被告人李の調書への具体化のために、誤つた供述の誘導工作を試みている点にもみられる。

たとえば、パチンコ機械の販売事業を被告人が個人として営んでいたことが、既に被告人李が逮捕される以前の質問てん末書(38・3・19)において、また、逮捕後の検面調書(38・4・11)において、供述されていながら、それの収益額や期間については、起訴された事業年度にかかわりをもたせないよう、事実に反し昭和三〇年頃まででやめた、との供述をさせている点である。

しかし、被告人李がパチンコ機械による営業収益をあげていた終期が昭和三六年頃であることは、一審に顕出された幾多の証拠によつて明らかにされた。

以上のとおり、捜査当局による「見込路線」は、一審公判段階に入つて、その虚偽の正体が暴露されたが、捜査過程においては、被告人李に対し、抵抗しがたい圧力をもつて迫まつたのである。

これに対する被告人李の立場と防禦策は一体どうであつただろうか。

被告人李が捜査当局から、資金源の開示を迫られた増加資産-不動産の変動、預金の増加-は、もともと被告人李が個人として歴史的に蓄積してきた手持資金のほか、個人経営によるパチンコ遊戯場の収益やパチンコ機械の販売による収益であつて、両会社の売上げ除外によるものでは断じてなかつた(被告人の公判廷における供述、被告人の逮捕の質問てん末書3・19)。

これが客観的事実であり、事態の真相なのである。攻撃にさらされた被告人李のとるべき態度、防禦の観点は、この真実を守ること以外にはなかつた。

さればこそ、被告人は逮捕以来、病監で病苦にさいなまれながらも、じつに九日間にわたつて、捜査当局の誤つた「見込路線」と斗い、真実を守りぬこうと努力してきたのである。

もし、真実が、捜査当局の「見込路線」で想定するようなものであつたとすれば、被告人李は何も九日間も無駄な抵抗をすることなく、もつと早い時期に、兜をぬいて、正真正銘の自白をしていたにちがいない。

ところが、被告人の当時の主体的諸条件のなかで、九日間も否認の態度を堅持し、事実を守つたということは、客観的事実そのものが、捜査当局のえがくような「見込路線」ではなかつたことを何よりも雄弁に裏ずけ、物語るものだといわねばならない。

ところで、逮捕以来、九日目に、ようやく捜査当局の「欲しがつている」「見込路線」にそう供述がなされるに至つた動機については、既に詳細論証したところであるが、ここで注意を要するのは、それならば何故に被告人李は、資産増加の資金源にかんする「真実の路線」をさらに積極的に主張し、供述して防禦しなかつたのか-という未解明の問題に逢着するのである。

しかし、その事情は次のとおりである。なるほど、被告人の個人事業に因つて、その収益が変化して捜査当局が云々する多大の資産が形成されたことはまちがいない。

個人事業による過去の収益と言つても、最も巨大な収益とされるのは、パチンコ機械の販売事業である。ところが、これについては、そのすべての取引と収支の全容を、当時の時点で捜査当局の前にあからさまに公にすることは、取引の相手方に不測の損害を及ぼすことになり、相手方の利益を害することになる。被告人李が考慮したのはじつにこの点であり、そのためにパチンコ機械の販売とその収益の著大であつた事実、それが発展転化して預金や不動産という資産増に変形している事実を、極力密匿し真実の供述を抑制し、ことさら、虚偽の迎合供述をもつて積極的にのぞんだのである。すなわち、「見込路線」にたつて迫つてくる検事の追及に対し、被告人李は自身の利害と内面的考慮から、虚構の売上除外論に妥協し、面従腹背の一連の「自供」調書の供述に至つたわけである。ちなみにパチンコ機械の販売収益について、被告人が一審で取引の相手方を証人として立証に努めたが、それが原因で、その取引の相手方が、国税当局に摘発された、といわれるが、このことは前記の如き被告人のとつた防禦の意味を理解するに適切な資料である。

以上要するに、被告人李の一連の「自供」調書中の「売上げ除外行為」にかんする供述部分は、それが虚偽である根源の動機は、右の事情に由来するのである。

それが吾人の経験則に鑑み、決して不合理な動機でない以上、さきに論じた供述動機論と結び、売上げ除外行為にかんする被告人李の供述は、いよいよ苦しまぎれに創作した物語りでしかなかつたことが明らかになるのである。

(三) すべて虚構の物語り

-売上げ除外の方法、態様をめぐつて-

捜査官の描いた売上除外行為なるものは前段で解明したように、もともと存在しない空虚なものであるから、単なる想定に過ぎない形象を、現実に存在したものとして、しいて、かたちずくるためには、さらに具体的な仮説を交えなければならない。

売上げ除外行為の方法、時期、態様にかんする供述も、実在の体験者がいないわけであるから、それの供述記載は、捜査官の独自の想定に、被告人が適宜加功するというかたちでの合作の成果であつた。

問 (弁護人)抜く方法について四月一日の査察官に対しては三月三十一日の検察官に対しての説明をさらに補足する若干の事実、説明がなされているわけですが、、、中略、、これはどうしてそういう供述になつたのですか

答 なかつたことを私は言うわけですからね。なかつたことを言えば、二人に負担がかかるわけですね。

だから、なるたけ余計な負担かけないために、わからないように取つたという単純な気持です。必ずなかつたことだから、そういう形でも矛盾というものにぶつかるわけですからね。そういう意味で言つたんです。

(被告人李の公判廷供述)

という供述が、そのことを物語つている。

この点で指摘しなければならないのは、調書相互の矛盾が救いがたい破綻となつて、供述記載の虚偽性を暴露していることである。すなわち、『3・31付検面調書』では(四項)

「駅前の方は私の弟が売上げを計算し、錦町の方は薗田和江が計算しますが、計算している時に私が抜いてしまうのです」

と供述して、被告人李による売上げ除外行為を、現金管理者の二人が明確には知らないかの如くえがき出されておりその点、4・1付の質問てん末書ではさらに明確に

「両店の会計責任者にはわからないように私が自分で現金を抜いていたのですから、多分、他の者にはわからなかつたのではないかと思います。私が自分で金を勘定する様なふりをして、今日は銀貨が多いなとか、何んとか言いながら、金を扱うのですから、それは誰が見ても自然であり、その様にしている時に現金を抜いてしまうので、誰もわからないわけであります。」

となつて、李漢成も薗田も知らないうちに抜いてしまうのだ、となつている。ところが、『4・3付検面調書』になると、事実が逆転して

「弟の一夫や薗田和江は、売上げを計算するのですから、私がこの様な方法で売上げを落して居たことは知つて居ります」(第四項)

という具合になるのである。

一体、真実、売上げを除外した行為者であれば、その際、会計責任者がその事実を認知しているか、いないか位は、間違つて供述する筈がない。しかるに右調書によると、わずか二日後の調書では、会計責任者も知つています、と訂正供述を行つているのである。これはさきに引用の被告人李の公判廷供述でも指摘されている如く、明白な検事の誘導工作の結果である。

『3・31付調書』では、会計責任者が計算しているときに、抜くと言つているのだから、被告人李の抜く行為を会計責任者が知らない筈はない-それが検事の抱いた通俗的疑問であり、想定である。それにさような想定にもとずいて会計責任者を逮捕しているではないか、もし、被告人李のいう如く、抜くことを会計責任者も知らなかつた、というのであれば、会計責任者両名から、そのような供述をとることもむずかしくなる。狼狽した検事は、抜くことは当然、会計責任者は知つていたのではないか、と追及、それに対し被告人李もそのとおりであると単純気軽に供述の変更を行つた。それがこの点の真相であろう。矛盾があれば、新な調書で検事のいだく通俗的想定の線にしたがつて供述の改変は自由自在に行われる。万事このとおりである。

まだ、調書のなかで、客観的事実と一見明白にまちがつている供述記載が多い。二、三の事例をあげると、たとえば「実をいうとメーターがあることはあるのですが、こわれている場合があるので、玉を売つている女の子には、誤魔化されないようにする為、メーターを見た様な振りをしますが実際にはメーターの数字は見えない」(3・31付調書四項)というのであるが、右供述がどんなに出まかせのウソであるかは、被告人李が公判廷で

「メーター絶対正確なんです。メーター見なければ、売上げもわからない。私が知らん様に売上げ抜いて

いけば、その差額が出てくるんですから、知らんということでは済まされんでしよう」

と供述しているところによつても明らかである。これはパチンコ営業のイロハの常識以前の問題である。

“メーターを見ないのに見た振りをする”という供述はそのようにつくらなければ、論理的に「抜く」余地は出て来ないところから、被告人李の案出した創作なのである。

さらに、調書のなかには、被告人李が店に赴かない日の場合について、売上げ除外行為の処理の方法にかんする説明供述があるが、こういう供述ができあがつたのも、検事の通俗的疑問と想定に被告人李が問われて便乗し、売上げ除外行為以外の若干の事実を織りまぜて供述ができたものである。このことは同被告人が

「抜いた事実はもちろんないけれども、実際的に私が店へ行けないときには、電話で店の状況を聞きましたから、メーターなんかも私が行けない時には、そのままにしておくんですから、きよう十万売れば、そのメーターそのままになつているんです。その翌日、十万売れば、二十万になつているんですから、十万ひけばわかるんです。店の状態というものは私が行けないときには聞くわけです。きようの客入りはどうだつた。景品は、メーターはと聞くわけです。だから抜けないんです」

と克明に説明している事実にてらし明らかである。右供述にはそれに照応する薗田、李漢成の法廷供述、38・3・18付各質問てん末書があり、検面調書の供述記載と対照吟味すれば、法廷供述のはるかに事実に即した説得力と真実性があるといえよう。

(四) 乱暴な論理

-統計表の奇術と売上額のつりあげ-

被告人李の調書には売上げ除外額について種々の変転した供述がなされているが、それが同人の自発的な体験の供述として、真意にねざしたものとして表白されたのではなく、検察官の統計表から逆算した数字を乱暴にも同人に押しつけ、同人がこれに同調した結果にほかならない。除外額をめぐる供述記載は、この意味でまさに、取調べ検事と、被告人李との間で、被告に対する検事の「取引」であり「妥協」であり、まあ、こんなところの額であろうという粗暴な数字のやりとりとして、はじき出されて来たものである。

その経過は被告人李が一審公判廷で

問 三万円抜いたと言つたことは

答 三万円、それ、数字、ぼくは言いませんよ

問 三万円と調書には記載されているんですが、どうして三万円という数字が出たかという点については

答 ならして五万円くらいだろうという話が出ましてね。そんなになりませんよ、と言つたんです。そしたら数字がだんだんさがつて三万円になつたんです。

と供述している点にてらし、明らかであろう。

除外額をめぐる供述の変転、状況説明は、万事このような方式で、デツチあげられたのである。

それが何を根拠になされたかについては、被告人李は終始、統計表によつて攻め立てられた旨をくりかえし強調している。

問 あなたの供述記載によると、三十年から三五年まで、一日平均一万円くらい抜いたという趣旨の供述があるんですが、それは実際の事実に反する事ですか

答 それは台数が少なかつたし、確かあのとき三万円で金額はまとまつて半分くらいではないか、ということで、そういう数字に落着いたのではないかと思います。

大ざつばなことなんですよ、それは結果的にはそうだろうということで、私は迎合したんですけれどもね。

私その場限りにおいては、そうじやないということを言わなかつたけれども、数字はそういつた字で三万円とか一万三千円とか出たのです。

問 三六年以降については、売上げましで一万五、六千円くらい抜いたという趣旨の供述記載があるんですが、その金額、時期はどうして出たんですか

答 一万プラスになるんですか。ぼくにはとにかくそのへんはまあちよつとわからないですね。

そのへんはいい線で書いたんじやないですか

問 あなたとしては数字を重要な根拠に基いて述べたという根拠はないんですか

答 割出す根本がないんです。わからないところは検事さんが適当にしたんじやないかと思います。

みられるとおり、除外額をめぐる取引は、統計表の一方的な押しつけが顕著である。しかし、統計表はもともと、売上げ額を算定するためにもうけられているものでは毛頭ない。

それは、玉の出具合いをみるために機械を調整する参考資料として存在し、それが目的として利用されているのである。百台をこえる多数の機械について、大量観察の方法として案出された資料に過ぎない。

統計表から売上げ額を逆算推定することは、著しい非科学的方法であるばかりでなく、元来逆算できないものであり、逆算できたとしても不正確きわまる数値であることは次の点からも明らかである。すなわち、第一に玉を入れるときに既に相当の誤差を生じていること。

一回五百個人れることになつているところを、四五〇とか、四六〇とか、目算で計量するため、不正確である。第二に他店の玉が混入することもある。第三に玉を買つた店で全部玉と景品を交換する人たちばかりでないこと、それに各機械の残玉を計算に入れるわけだから、各機械のプラス、マイナスを合計しても、それに単価を乗じたものが、売上利益に一致することは全くあり得ない論理である。

このように、統計表の目的は単純に技術的なもので、パチンコ機械の常態を把握し、その機械の調子、くせを調べ故障を修理したりすることにあるから、数量的に大量観察としては大体、儲かつているか、損をしているかぐらいの損益の大勢を判断把握する指標になればなりうるけれども、それが本来の目的ではないのであるから、そのように利用され活用されたことはないのである。

したがつて、統計表の逆算数値を、そのまま売上額の概算として推定することは、奇術であらずんばいちじるしく乱暴な論理といえよう。

統計表によるかような逆算の論理が、論理としても矛盾にみちたものであることは、被告人李の公判廷における供述、李漢成の38・3・18付質問てん末書、同人の証言その他によつても裏ずけられている。

統計表によつて逆算される数値は、いずれにしても破天荒な数字であり、それは現実のパチンコ営業としては合理的に想定できない数字である。

合理的に想定できない売上げ数値を前提にして、これから途放もない数額を除外するという捜査当局の 「見込路線」と統計表逆算型論理は、恐らく現実のきびしい競争と試練に耐えて存立している栄大商事などを本当は眼中に入れない、夢の国の夢物語的発想だといわざるを得ない。

本件両会社を含む現実の企業経営において、もし、捜査当局又は原判決が認める如き売上げ除外を行い、つづけたならば、パチンコ営業は企業としての存立自体否定されなければならない程、不合理かつ矛盾にみちた結果をもたらすことは必定である。一連の被告人李の調書が虚偽自白であることはこのように明快といえるのである。

第四 李漢成および薗田和江の検察官に対する各供述調書の信憑性

一、李漢成の検察官に対する供述調書の証明力は否定さるべきである。

(一) 李漢成の検察官供述調書の信用性の欠如

(1) 頑強に否認した理由

李漢成が兄李聖凡の法人税法違反の共犯として逮捕されたのは三月二七日で、いわゆる売上げ除外を認める供述がなされたのは逮捕後じつに一三日目の四月八日のことである。李漢成の釈放は、右供述後五日目の四月一三日、被告人李と同時に身柄の拘束をとかれた。

李漢成にたいする前記容疑による取調べは逮捕の前後を通じ、また、国税査察官によるものを含めると、五、六回以上にのぼるが、四月八日の前記趣旨の検察官供述調書に至るまでの間、数次にわたる捜査官の取調べに対し、李漢成は一貫してつよく、売上げ除外行為否認の主張を堅持してきたことは、捜査主任検事であつた山同証人も認めている。李漢成が取調べをうけた経緯を概括的に略記すれば、

△逮捕前

国税査察官から六回位取調べ。

三月一八日、質問てん末書作成

△逮捕後

検察官から逮捕直後取調べ

国税査察官から逮捕後三日目に取調べ

検察官(大畑)から 一~二回

検察官(山同)から 二回

という具合に李漢成に対する捜査官の追及は執拗をきわめた。

しかし四月八日に至るまでは捜査官の必死の追及は悉く失敗し李漢成は不実の供述を拒否してきたのである。山同証人も「弟は法人税の申告をしたわけではないし、自分がなぜ共犯として逮捕されるのか理由はない、としきりに訴えていた」と自認している。それはいうまでもなく売上げ除外行為自体が存在しない虚構の事実であつて、これに「共謀加担」することはナンセンスであるからである。李漢成が頑強に否認の態度をもつてのぞんだのは、このような真実に依拠したからにほかならない。それでなければ捜査官のいれかわり、たちかわりの激しい追及にもつと早い時期に、またもつとたやすくそれ相応の供述をしたであろうことは疑いない。李漢成にとつて強引に逮捕されたこと自体、予期外の出来事であるばかりでなく、「法人税ほ脱に共謀し加担し」たとして「共犯」容疑者に仕立てられたことは、いつそう身に覚えのない不慮の衝撃であつた。

したがつて、李漢成の否認は、全く正当な動機と事情に由来する抵抗であつたのである。

(2) 虚偽の供述形成過程

-その動機と理由および検察官の不正な手口-

(イ) 「つくられた供述」とその事情

頑強に不実の供述を拒否しつづけてきた李漢成が四月八日に至つて、突如、従来の態度を一変し、売上げ除外を自認する供述をなすに至つたか――このことを解明することは李漢成供述調書の信用性を左右する重大な争点といえよう。

弁護人は原審弁論において

「李漢成が右供述を余儀なくされたのは、捜査官から兄李聖凡の虚構の自白調書を読みきかせられ、それに照応した供述をすれば早く出られ兄も助かるとの利益誘導を受けたこと、また、兄の病状に対する憂慮と経営機能の麻卑した店舗に対する不安と焦躁感からである」

と指摘して該供述調書の信憑力を弾効したが、原判決は不法不当にも右検面調書を採用し有罪認定の重要な資料とするの暴挙をあえてした。

そこで、弁護人は以下に重ねて原判決における事実誤認の決定的基礎となつたところの李漢成供述調書の虚構を論証する。

(ロ) 兄の「自供」調書の読みきかせと釈放をめぐる利益誘導

従来、否認していた者が態度を一変して自発的に供述するとか、あるいは捜査官の求めに応じ求めるままに供述するとかの事態には、供述者の側での内心の変化という動機と、内心の変化を誘発させる外部からの供述者への働きかけが、かならず随伴するものである。本件においては捜査官の側からの供述を慫慂する手段が積極的に施用され、供述者李漢成の内心の変化(迎合的なそれ)が誘発された結果、捜査官検事の「欲しがつていた」売上げ除外行為自認という供述調書が作成されたのである。検事が誘発した手段は、既に「自供」調書ができあがつていた被告人李のそれを読みきかせ、供述とひきかえに釈放をほのめかす、という常とう的手口であつた。

尤も主任捜査官検事同証人は兄、李聖凡の「自供」調書は読みきかせたことはなく、早く供述すれば出してやる、と告げたこともない、旨主尋問では答えながら、弁護人の反対尋問に出合うや

「調べの段階で兄がいろいろなことを自供したということは調べの内容から感じとつていたと思う」とか

「弟には兄は全部認めたという趣旨のことは話しております」

「ただ兄はみんな言つている、ということは言つているんです。だから兄貴に対する関係では心配することはないぞ、というような話はしておるんです」

という具合に、調書そのものを読みきかせはしなかつたが、その内容は話して供述しても心配ないんだぞ、と慫慂したことは自認せざるを得なかつたのである。

ここまでくれば、とくに右に引用の山同証言の後段の部分は“語るに落ちる”たとえのとおり、実際には李漢成に対し、兄の「自供」調書を読みきかせてこのとおり供述すれば、お前も兄も早く出られるから、さあ、早く供述せよ、と迫つたであろうことが容易に推察される。山同証人はそのことをあからさまに証言しないが、しかしそう推認すべきであることは山同証人の控え目な証言のなかにも現われている。

そのことを最も明快なかたちで裏ずける方法は李漢成証人の証言と対照吟味してみることである。

李漢成証言

「前略・・・私自身は学校を出て一年ばかりであるし、パチンコというものもどういうものであるか知らなかつたし、まさか逮捕されるとは思つていなかつたわけです。根拠もなしにね。それで三月三十一日頃から私の兄さんがぼつぼつそういうような除外したというような供述を言われたもんで私のところへくるたびに、兄の供述書を私に読んで聞かせるわけなんです。私としては、しかしないことを言われるんで否認、否認をつづけてきたわけなんですよ。

そして四月八日に検事さんが盛んに、早く言えば出られるんだと。兄さんの状態はどうですかと私がきくと、兄さんはこう言つているんだ、早く言えば君も出られるし、兄さんも出られるんじやないか、と。兄さんはこう言つているんだ、と盛んに兄さんの供述調書を強調するんです。」

や、長文に引用した李漢成証言は、山同証人が控え目に証言している供述誘導工作と利益誘導の実相を、まことに明快に表白して余りがない。

供述がとれずに困惑している検察官が焦慮の余り兄の供述書を内容的に読みきかせて李漢成を口説きおとす位、捜査の実験則に合致しているものとみてよい。ここに虚偽の迎合的供述が行われる捜査官側の不正な誘導工作の実態がある。

本件に於て山同検事が李漢成に兄の「自供」調書を読み聞かせ、釈放と供述を取引の手段にして利益誘導の取調べを行つたことは以上の証拠にてらし否定しがたいものがある。

こうして真実に反し李漢成をして「内心の変化」を誘発させ供述させるに至つたが、李漢成が捜査官の巧みな誘導工作にのつて敢えて迎合的な供述に及んだのは次のような動機からである。

(ハ) 兄の病状憂慮と経営破綻の焦慮、兄李聖凡が当時、糖尿病が悪化し重篤な情況にあり、相当な手当を要する事態に追いこまれていたことは一件記録上明白で多言を要しない。兄の病状の悪化を最も懸念していたのは、ほかならぬ李漢成であつた。李漢成が当時どの程度兄の病状に思いを馳せていたかを李漢成自身の証言によつて明らかにしよう

「私の学生時代から兄が糖尿病で非常に具合いが悪くて私も四度ばかり東大病院へついて行つたことがあります。私が甲府へ来たときは、すでに家で食事療法をしているときが多かつたんです。そういう状態で国税に入られて余計に具合いが悪くなりまして、兄さんが逮捕される直前まで病院に何回も行つたような状態で・・・中略・・・兄のからだのことが非常に心配だつたのです。」

「それで医者も糖尿病という病気は発作か何か起きて倒れる場合があるんだというようなことを盛んに言われておりました。」

「中略、(検事は)兄さんはこう言つているんだ、と盛んに兄さんの供述書を強調するわけなんです。それで私もよほど兄の具合いも悪いんじやないかということを感じたわけです。私も入つて間もなく具合が悪くて、いままで痔というものをもつたことがなかつたんですけれども、はいる直前にすごく下痢をして食事も取れなかつたような状態でありましたし、はいつて間もなく私もレントゲンを取つてもらつたり、薬をもらつてずつと出るまで運動の時間があるんですが、それも一度きり出られたような状態で非常に衰弱しているんだから兄は相当悪いんだろう、ということが、こびりついて、兄がこういうところまで言つているんなら私も事実にないことだけれども、そんなようにつじつまを合わせてやらなくちや、これはどうしようもないんだ、というような、ある程度、やけつぱちのような状態だつたわけです。・・・・」

と。

ここには病弱な兄が刑務所という最悪の環境のなかに押しこめられ自身の生命の安全と維持のために、不実の供述を余儀なくされたことを知り、兄の病状が相当悪化したことを察知した弟、李漢成が、憂慮の余り、もはや一刻もゆるがせにできない心情に追い込まれて、捜査官にいわば迎合的に、その求めるままの供述をするに至つた動機が素直に表白されている。李漢成が取調べをうけている過程でも兄の病状について心を痛めていた事実は、山同証人も自認している。

問 李漢成が李聖凡の逮捕、勾留後のからだについて心配していたということは、ありませがか。

答 兄貴は糖尿病だから、というようなことは言つていました。これは本人がよく知つているわけですから。そういうふうに勾留したのは不当だというようなことを言つていました。

李漢成が病人である兄を不当逮捕されたことに激しい抗議を行つたことは、自身が刑務所内の医務課で、兄の病舎入りを知らされたことによつて、いつそう深く李漢成を苦しめ、さいなんだ、といえよう。

だから、兄が「自供」――真実に反して――したと言われ、それをきいた李漢成としては、兄は事実に反したことを言つても早く釈放をねがつている程、刑務所内で相当体が痛めつけられているんだな、と察知したことはまことに自然の道理といえよう。原審裁判官もその点の解明をこころみている。

問 兄の供述書の内容をきかされて兄が相当参つているんだということがどうしてわかつたか。

答 実際にないようなことを兄が言つているわけですよ。そして検事の方でそれに結びつけようとしているから、私は兄が相当衰弱しているんだと感じた、ということは相当具合いが悪くて早く出たくてということなんです。

李漢成が兄の「自供」調書に依拠しても自分も不実の供述をする気になつた動機は以上の経過からも窺われるとおり、

「前略、それでいずれ出所してから、いつかはわかつてもらえるという自分の考えだつたのですから、からだの方が先決だということでそういうことになつたのです。」

というのが事態の真相である。

以上の経緯からすれば李漢成の供述とそれを記載した検面調書は、検察官から兄の供述内容を教えられてそれに照応する供述を余儀なくされたこと、そしてそれは兄の容態を憂慮していた弟自身と兄の身柄の釈放をかちとるという妥協的取引の結果として――であることが、ゆうに認められるのである。李漢成の証言内容はこれらの点について検察官が兄李聖凡の自供調書を盛んに強調して、かつくりかえし反覆して具体的に迫つていつた有様がきわめて明瞭ゆたかに描き出されており、これは真実体験した者のみが、はじめて語りうる具体性と情景を伴つている。既にこの点にてらしても検面調書の不信用性は決定的であり、法廷供述はそれにはるかまさる信憑性を有するというべきである。

(ニ) 検事の創作附加した動機の供述記載

李漢成の検面調書には従来の否認の理由と供述の動機にかんする説明として

「私や兄がこれまでいろいろ苦労してパチンコ店を経営して来た事であり出来ることならこのような営業の儲けは無かつた様にして置きたかつたので、本当のことを言わなかつたのでありますが、何時までも穏していても穏せる訳けのものでもなく本当のことを話した方がよいと思いますので、本当のことを正直に話します」

という記載がある。一審検察官はこれを目して李漢成調書の真実性ないしは信用性の存在を指摘した。

しかし右文言はそれが供述調書に記載された次の如き経過事情を顧るならば、字義どおり措信することが重大な誤りであることが明らかとなろう。さすがに山同証人は、その点は本人が言つたままに書いた、と逃げているが、事態の経過を追つていけば、いままで否認していた者がウソの内容であつても供述をはじめるわけであるから、供述の心境を調書の真実性を仮装する方便として録取することは調書作成のコツである。

李漢成によれば、右の供述が調書に記載された経過は次のとおりである。

問 今まで穏していたけれど今度は本当のことを言うというような心境が調書の中に出ているが

答 それは私は本心に反するが、兄さんの言つているようなことに対して合わして言つただけです。

問 合わして言つたにしては、私や兄がこれまでいろいろ苦労してパチンコ店を経営してきたことであり、できることならこのような営業のもうけはなかつたことにしておきたかつたので、本当のことを言わなかつたのであります、と言つておられるんですが

答 それは検事さんが勝手に作つたことであつて私は決してそのようなことは私から直接言つたわけではないのです。

問 先程、検事さんが、あなたは最後の調書を述べるときにまず心境を述べて今まで売り上げを落したことがないと言つていたけれども今日は本当のことを言いますと言つて述べているじやないかと言つていましたね

答 はい

問 それに対してあなたはそれは検事さんの方で勝手に書いたんだというようなことを言つていましたね

答 はい

問 あなたが述べたことではなかつたんですか

答 結局、向うからそのような質問をしてその売り上げを何したことを、兄貴の供述書なんか読んで兄貴がこう言つてるじやないかと、早く言うと君も出られるし兄さんも出られるんだと、そういう形でじやおれたちも除外しましたと、じやあ調書を書くときに本当のことを言いますということで作成したわけです。そうやつて書いて行つたわけです。

右問答でも明らかなように前叙の理由で既に虚偽の供述によつてでも検察官の意図に迎合して一刻も早く身柄の拘束を免れ、兄をも救いたいという心情に変化していた李漢成であるから、検察官が供述者の心境を忖度してこれを供述記載にまとめたとしても、供述者の真意にもとづく自発的な悔悟の心境をありのままに叙述したことにならないのは当然の事理である。李漢成調書の前記まえがき部分は供述内容の真実性をことさら印象ずけようとするための検察官の作為に出た独断であるばかりでなく、それは調書の枕言葉としてなかば定型化された作文といえよう。されば、作文は容易に虚偽性を暴露するものである。

ちなみに前記引用の作文の冒頭に

「私や兄がこれまでいろいろ苦労してパチンコ店を経営して来たことであり云々・・・・」

とあるが、パチンコ店経営で苦労して来たのは「私や」ではなく「兄が」である。さきにも引用したよう李漢成は、その法廷供述でも述べている如く、

「私自身は学校を出て一年ばかりであるし、パチンコというものもどういうものであるか知らなかつた・・・・云々」

のであるから、パチンコ店の経営に苦労した経歴や実績がないだけでなく、さような身分でもなかつたのである。このことは李漢成が逮捕される前の国税査察官に調べられたときの同人の質問てん末書の記載をみてもわかる。

問四、大栄興業におけるあなたの仕事の内容について説明して下さい。

答 大栄興業は昭和三七年二月九日開店し、その時からずつとおるわけですが、最初の頃は社長の代理というかお目付役というか、社長の兄弟ということで店全般の監督をしていたかたちになります。

というのは私は具体的に帳簿を記帖するわけでもなく、特定した仕事はありません。たゞ機械の修理を時々してやる程度でした。

中略、最近になつて景品受払帖、機械の総計表を記載したり現金の管理や小切手の振出しを行つています。

という具合である。しかも記帳や現金管理業務に手を出したのは昭和三七年七月以降のことであり、また李漢成が、日大理工学部の出身で理科系を専攻としていたという事情からしても社長の代理とはいえパチンコ機械の修理をやつていたという一事にてらしても、到底、他のパチンコ業者に対抗して店の経営の責任を一身ににない、苦労を分ち合うといつた身分や立場になかつたことは証拠上明らかな客観的事実である。パチンコ経営で最も業者が苦労した時期は、連発禁止後の数年間で、昭和三四年頃には一応危機を克服し相対的安定期を迎えた(上田弁護人一審弁論要旨三項、「連発禁止後の業界の商況」参照)のであるから、そこに至るまでの時代を知る由もない李漢成が、「これまでいろいろ苦労してパチンコ店を経営してきたなどと、「私と兄」を同格において、心境を告白するなどということは虚構も甚しい。検事の創作の跡が歴然としているではないか。

ここまでくれば、李漢成調書の「心境供述」は、かえつて検事が虚構の調書の信用性をたかめるために、ことさら附加した例文として調書全体の虚偽性をも推知させるに充分といえよう。

(ホ) その他二、三の問題

原審検察官は李漢成調書の信用性を裏ずける一事由として、不動産登記書類が同人の供述によつて発見されたとか、釈放後検察官にあいさつに来たとか、些細な状況をあげて陳弁これ努めている。しかし前者については弁護人の反対尋問によつて解明されたように、李漢成の供述によつて、はじめて書類の所在が判明したというのではなく、兄が登記書類を弟に預けたというので、弟にきいたところ判明したというのであり、これをもつて調書の真実性を云々することは失当である。

また、釈放後、検察官に面会にきたという点も、きめ手となる証拠資料はなく、むしろ検察官の錯覚である疑いもあり、いずれにしても供述調書の信用性を支持する資料とはならない。

次に、李漢成自身、予期外の逮捕という初体験に加え、逮捕以前の消化器の故障、痔病、不眠等不良な健康状態にあつたことは、健康診査簿の記載や本人の法廷供述、山同証人の証言等を総合して窺われ、李漢成供述調書の信憑性に重大な疑いを投げかけるに充分である。

(二) 李漢成の検察官供述調書の非真実性

李漢成の検察官に対する供述調書は全般的にそうであるが、とくに売上げ除外にかんする部分の記載-手段、方法、程度、態様等の供述――が漠然として抽象的であり、具体性に乏しい。実際に売上げ除外に加担した者の供述とは程遠く不合理な点が著しい。

尤も、調書の供述記載はそのすべてが虚偽の内容にみちているわけではない。

たとえば調書第二項の李漢成が入社した経歴、経過にかんする部分、同第三項の職務内容が変化した経緯や日常業務の内容や分担、景品の管理やその記帖等また同第六項の経営の責任事項等については、全体として真実に合致している。このことは薗田和江や李漢成の国税査察官に対する質問てん末書や、法廷供述とも符合しており略々正確とみてよい。

問題は売上げ除外行為の説明にかんする四項の部分が、甚だしく真実をわい曲した虚構にみちていることである。

つまり李漢成調書は、真偽織り混ぜた作文であることが特徴となつているのである。そして虚偽の供述部分の台本はいうまでもなく被告人李の一連の虚偽仮空の「自供」調書である。

被告人李の「自供」調書にない部分は「自供」調書に照応した、検事の創作が附加される、といつた具合で李漢成調書が創作されたのである。

以下に若干の特徴的事例を指摘しよう

(1) ゼスチユアとしてのメーターの測定

李漢成調書第四項冒頭部分に

「(メーター)はこわれることもあり、店員に対する関係上、メーターの数字を見た振りをしますが、売り上げの方はその日の出によつて抜いたりして居りましたから、そのメーターの数字をその儘、帳簿に載せることはしておりません」

との供述記載がある。この供述記載は、文意の構成が不明瞭であるばかりでなく、客観的事実とも明白な相違がある。第一に、メーターがこわれることもあり、というが、メーターが故障して機能がとまるなどということは、老化したばあいなどのきわめて異例のことで、平常は、こわれるなどという事態は殆んどないのである。(李漢成、薗田の各証言)第二にメーターの数字は零に戻す以外、途中の数字に戻すことは不可能(薗田証言)だから、売上げを抜いてそれにメーターを合わすことは不可能である。

第三に、右供述記載では、売上げを抜いたばあい、メーターとどのように調整し操作したのか、相互の関係についてなんら説明するところがない。

第四に「店員に対する関係上、メーターの数字を見た振りをしますが・・・・」とある供述部分は、被告人李の三月三十一日付自供調書と表現も内容も全く同じように描き出されている。すなわち、同調書第四項、中段部分には

「実をいうと玉を売る機械にはメーターがあることはあるのですが、こわれている場合があるので、玉を売つている女の子には誤魔化されないようにするため、メーターを見た様な振りをしますが、実際にはメーターの数字は見ないのであり・・・」

という記載がみられる。これは明らかに検察官が片手には被告人の「自供」調書を閲覧しながら、他方の手では李漢成の供述内容そのものとして、多少の字句と表現を変えながら、ひき写していつた形跡が顕著である。してみれば李漢成供述調書第四項の前記引用部分は全体として検察官が被告人の既にできあがつていた「自供」調書を台本として、これに依拠し、照応しながら、調書に李漢成の「供述」としてまとめあげていつたものと認めるのが相当である。仔細に同供述記載をみれば供述者が体験として知悉している事実を自然に表白し、供述として記載したのでない疑いが、たとえば文脈の流れや叙述の形式においても窺われる。

ちなみに売上げ金の回収、集計作業とメーターとの確認作業は、実際には社長か薗田又は李漢成がタッチするがメーターの表示と売上金額とは殆んど一致していたから、それをそのまま帳簿に記入していた (薗田、李漢成の各証言、右両名の逮捕前の査察官に対する質問てん末書、被告人李の法廷供述参照)のであつて、売上げを抜く余地もそのための格別の操作や工作も全然、現実には存在しない仮空の事実であつたことが論証されるのである。

(2) 除外の数額、方法にかんする創作

李漢成調書の第四項中、李漢成が現金管理者に就任したとき、兄から除外のやり方について指示された、という供述部分の記載にしても、李漢成の体験や真意から出た供述でないことは、供述記載の内容や他の供述記載部分との対比においても明瞭である。

山同証人は李漢成の供述調書の内容が具体的に除外の方法について両者(兄と弟)の供述内容がちがうことが、措信しうる根拠と主張している。

すなわち、

「兄と弟の言う内容はちがうんです。三十一日の兄の自供の時には自分が勘定している場所へ行つて、そのなかからとつてくる故、あとの二人は知らない、という。ところが四月三日の調書ではこの二人とも自分が抜くのは知つている、と供述したんです。そしてさらに自分がいないときはその金額をきいてそして指示してその金額だけ除外させるんだということをはじめて言つたわけです。ところが、弟の供述では森からひきついだときに、『景品の出の金額よりも三~四万円多くなるように売上げをして、あとはおとしておけ』というようなことを最初にいわれて以后そのとおりやつているというわけです。ですから兄の指示した内容と弟のいうのでは結果においてはあれですが、やり方においてちがつているんです。具体的に説明しています。中略、兄のいう仕入原価に対し原価が八割になるようにするという、二割増ですね、そういうつもりでやつたというのを説明している。というのは一々いくら抜けという指示でなくてある程度弟に任していたということがいえる。云々」

と。まず、右の論拠のなかで引用されている被告人李の「自供」調書の三月三十一日付のものと四月三日付のそれについて、後者の調書の売上げ除外行為の供述記載の真実性を前提として、立論していることにそもそもなんらの正当性の基礎がない。けだし、二つの調書は、現金管理者であつた薗田や李漢成が、被告人李の「抜く」のを、一方では不知の間にやつた、といい他方では承知して加担していた、という具合に全く矛盾する事実が記載されているからである。このばあい後者の調書の記載内容が前者のそれにまさる信憑性を有する、その根拠は何もないからである。むしろ、真実、売上げ除外行為に及んだ指であれば、現金管理者がそれを認知していたかどうか、到底、間違える筈のことはないにもかかわらず、わずか二日間の間に事実が逆転して、現金管理者である薗田も李漢成も、被告人李の抜くのを知つていた、知つていたばかりでなく、被告人李がいないときの抜き方処理についても加担している――という具合に供述内容を変化発展させてきているのである。

このことは弁護人の推理をもつてすれば、被告人李はさきに述べたような事情で余儀なく「抜いた」という虚偽の自白をさせられた(第一回の「自供」調書三月三一日付)。それは全く虚構の事実であるから、現金管理者である薗田も李漢成も「抜いた」事実は知り得ようもない。かくて第一回調書では薗田、李漢成は「抜く」のは知らない。不知の間に抜くのだ、という供述となるのは自然である。

これに対し賢明な捜査官は、現金管理者ともあろうものが、被告人の「抜く」のを知らぬ筈はあるまい。

被告人が店に行かないとき 誰が抜くのだ――という具合に激しく追及したとみてよい。そこで被告人もどうせ虚偽自白として検事に迎合した建前上、別の調書(四月三日付)では、検事が疑問を提起した問題に対して、現金管理者も私が抜くのを知つていました、と逆転した事実を供述し直すことになる。検察官は供述し直した調書が絶対の真実だと誤信して立論しているところに、実は本件の事実誤認のひとつの盲点がある。

要するに二つの被告人の調書は、見誤ることのない事実を見誤まつている点において、すでにその信憑性には重大な疑いが投げかけられるべきであつた。ところで、李漢成調書の信憑性にかける検察官の期待は、李漢成の売上げ除外にかんする供述は、兄とはちがう。予め兄の指示した方向で任せてやらせておいた。それが李漢成の供述によつて明らかにされたのだから、その供述内容は信用できる――という主張である。

ところが――である。右の点も結局においては李漢成調書の信憑性を否定するになんの妨げとなるものではない。けだし、李漢成調書の売上げ除外にかんする供述部分について、除外の説明の方法としては、被告人李の「自供」調書とはちがつた独自の部分もあるが、しかし説明の根拠となる素材はすべて被告人李の三回にわたる「自供」調書のなかに豊富に存在しているのであるから、(例えば割数にかんする供述、売上げ二割を儲けとして超過分は「ぬく」旨の供述等)これを「信頼しある程度任かせておいた」弟の地位にふさわしいようなやり方で適宜、構成すれば、それは李漢成供述調書を創作することきわめて容易である。つまり捜査官が李漢成の地位と身分を特別に意識して薗田からは区別し、除外方法の供述においても、被告人李のそれとは多少独自な、異つた説明をもりこむことはたやすいことであり、こうして李漢成調書の信憑性を理由ずけることは、捜査官の秘術でもあろう。李漢成調書の売上げ除外行為にかんする供述は、このように数次にわたる被告人李の「自供」調書によつて素材を豊富に仕入れた検察官が、李漢成の地位と身分にふさわしいように素材を組立て「供述」せしめたというほかはなく、実質的に検察官の創作に出るものであるから、到底措信しがたいといわねばならない。

二、薗田和江の検察官に対する供述調書の証明力は否定さるべきである。

(一)、検面調書の信用性の欠如

(1)、一貫して否認した理由

――共犯(被疑)者でない者に供述を強要することの矛盾――

現金管理者、薗田和江について、いわゆる売上げ除外行為を認める供述が、検察官に対しなされたのは昭和三八年四月一六日の取調べに於てであつて、これは同女についての勾留満期の二日前であり、逮捕されてから実に二十日目にあたる。

本件について一審捜査主任検事であつた山同証人の証言によると、薗田を逮捕した直後に、応援検事として二~三回、同女の取調べを担当した森検事に対しても、薗田は逮捕の理由とされた被疑事実については全く無関係であると、強く否認の態度を表明したとされその後、四月六日から十六日までの間、主任検事である山同証人が、四~五回取調べた際にも、ひきつづき否認ないしは黙否の態度を堅持していた、というのである。

すでに三月三十一日には捜査官の渇望していた被告人李の「自供」が得られ、次で四月八日には、被告人李の数次にわたる「自供」調書を武器として、李漢成を屈服させ、その供述調書を入手する程の凱歌をあげ、しかも四月一三日には右両名が釈放されてしまつているのに、ひとり薗田和江のみが、尚拘置を継続されていたのはいかなる理由によるのであろか。

それはいうまでもなく、同女が、捜査官の「欲しがつている」売上げ除外に関する供述を拒んでいたからである。

では一体、何故、薗田は頑強にも一貫して否認の態度を貫いてきたのであろうか。逮捕は愚か、警察官の取調べの体験さえ有しなかつた一介の若い女性が、刑務所生活の初体験のなかで強大な権力を有する検察官に不屈に抵抗して行つた推移と由来を正しく解明することは、同女の検察官調書の信憑性を左右する決定的要因とならう。

それは端的にいえば、法人税ほ脱事犯の共犯=被疑者たらざる者を共犯=被疑者に仕立て、これから供述を求めることの不合理と矛盾が生んだ、薗田は犠牲者であり、被害者である、といえよう。薗田の立場からすれば、検察官の不正と暴挙に全身抵抗の姿勢をもつて対決したにすぎず、それは虚偽の供述強要との妥協を排して、真実と正義を守り貫きとおすことに必死な努力を払つた苦闘の証跡を示す。

(2) 虚偽の供述の形成過程

―その動機と理由および検察官の不正な手口―

それでは最後まで頑強に否認の態度をもちつづけた、薗田が四月一六日の段階へ来て、何故しかく、売上げ除外を認める供述をするに至つたか。

(イ) 自供調書の読みきかせと迎合供述

それは第一に薗田証人が一審法廷で切々と訴えているように、検事が被告人李や李漢成の調書を、具体的に読みきかせて、不実の供述をなすことを迫つたからである。

尤もこの点、山同証人は、検察官の主尋問に対しては、「他人の調書の読み聞けはやらぬ」とか「誰がこういつているとかいうようなこと、具体的にこうだからお前も認めよ、ということで調書は作成しなかつた」と否認しつつも、他方、

「李聖凡は認めているというような、がいかつ的なお話はしたと思います。それでおそらく、安心したんじやないかと思います」

となかば自認している。

弁護人の反対尋問に対しては山同証人は

「和江の調べには社長はもう売り上げの除外をさせていたということを述べておるが、どうか、ときいた」

旨証言するに至つた。取調べ検察官の以上のような控え目な証言のうちにも、すでに捜査官が入手していた被告人李の「自供」調書を供述を求める攻め道具に使つた有様がゆうに推認できる。

ところで、薗田が二〇日間も頑強に供述を拒んでいたのに、それを解除して、虚偽の供述を余儀なくされたのは、決して概括的に被告人李の自供事実を伝えられた、という程度にとどまるものではない。

捜査官が積極的にかつ具体的に、被告人李の「自供」調書を読みきかせ、それに符合する薗田の供述をつよく誘導したからにほかならない。

そのことは薗田証人が一審公判廷に於て検察官の主尋問に対し

「社長の調書なんかをよんできかしていただきまして、そういうようなところは二度も三度も読みかえしてくださいましてね」

と証言していることによつてきわめて明白であるが、右の事実は弁護人の同女に対する反対尋問によつて、さらに明瞭になつた。

問 社長の調書は一通ですか

答 さあ、よくわかりませんが、だい分たくさんの閉じ込みのなかを開いて、、、その個所をこういうことを言つているということを指でさして読んできかせていただきました。

という程、露骨な供述の誘導である。

他人の自供調書を具体的に読みきかせて、それに照応する供述を迫る――という手口は、単に社長の調書のみが利用され、活用されたのではなかつた。

すなわち、薗田が供述にふみきる過程では、李漢成の供述調書も攻め道具に使われた。

一審、山同証人は、極力これを否定し、その理由として、

「李漢成の方は会社もちがうし、やり方がちがう、李漢成がこう言つているということは、いう必要はないと思う」

と陳弁、これ努めている。

しかし、これは驚くべき遁辞であり、不合理きわまる詭弁である。

なぜなら、会社はちがい、やり方はちがうと言つても、同じ李聖凡の経営にかかる店舗である以上、しかも現金管理者として売上げ除外行為に具体的に加担したか、どうかの一点に於ては全く共通の運命と立場にたつている以上、相互に共通の取調事項である筈である。

同一経営者の指示で現金管理を日常の職務としている一方の李漢成がすでに売上げ除外を認める供述をさせられて、釈放され、薗田和江ひとりが孤立無援のかたちで残留しているという情勢のなかで、李漢成も供述して釈放された――としてその供述調書を示し、同女もそれに同調するよう促さないことが一体ありうるだろうか。本件の各共犯被疑者らに対し示してきた捜査官らの一連の手口からすれば、頑強に否認して屈伏しなかつた薗田に対し、李漢成の調書もその内容も告げず、供述を促さなかつた――とすることは余りにも経験則に反した欺まんであろう。さようなきれいごとで、二〇日間も真実を守つて刑務所内の生活に耐え、不実の供述を拒否しつづけてきた薗田を屈服させることがどうしてでき得ようか。

山同証人の証言は、取調べに殊さら無理や行き過ぎはなかつたと印象ずけようとする考慮が先立ち、かえつて、不正な誘導と威迫を用いて供述を創作したのではないか、との疑惑を深める結果になつたのは注目されねばならない。

ちなみに薗田が李漢成の調書を読みきかせられた事実は

問 売上げを落したと述べた動機は調書を見せられた、と言いましたね

答 はい

問 誰の

答 社長と最後のときは弟さんの読んでもらいました。

問 李漢成さんです

答 はい

という証言を通じて明瞭である。

(ロ) 釈放をめぐる利害誘導

四月一六日、薗田が供述するに至るまでの同女に対する捜査官の取調べは、四-五回行われたが、同女の反応は、「しやべらなくなつたり」、「非常なかたくなな態度で口をつぐんでしまうような態度」であつた(一審山同証言)

ところが四月一六日に「今までの黙否の態度から、非常にスムースに話すようになつた」(山同証言) ことも俄かに信用しがたいものがある。

とは言え、検察官の求める供述に同調もしくは諾否の表明を行うに至つたことは窺われ、これは実は取調べ捜査官による釈放をめぐる露骨な利害誘導工作が行われたことによる。

その手口はこうである。

すなわち、社長や李漢成が、しやべつているように、売上げ除外行為に加担していたことを認めなければいつまでも釈放はできないぞ――という不利益誘導であり、他方、認めれば、すぐ釈放してやるという利益誘導の両手使いである。

山同証人は、薗田には李漢成らが釈放されたことは言わなかつたと、きれいごとを述べているが、その虚構であることは薗田証人の法廷供述と対照すればきわめて明白である。

検察官の主尋問に対し

問 社長をかばうならむしろ、実際の状況を説明すればわかるんじやないですか

答 もうその時は社長の弟さんも出て私一人だけ残つていたんだと思います。けれどもそれも社長も弟さんもこういうことを言つてすでに出てしまつている。

君もこういうことをいえば出してやるんだから、ということをいわれて

問 むしろ、実際の取扱者なのだから実際の額をいえるんじやないんですか

答 社長やなんかと同じようなことを言わなければいつまでも出られないということをいわれましたと。同様の趣旨は弁護人の反対尋問によつても明らかにされた。

問 売上げを除外したことを認めなければ、いつ出られるか、わからないということを検察官が言い始めたのはいつごろからか

答 二回目からです。いつまでも出られないということは、最後の日だと思いますが、こういうことを言い始めたのは二回目ぐらいだつたと思います

問 あなたは社長がすでに釈放されている、ということを想像しませんでしたか

答 検事さんから聞かされました。

問 いつですか。

答 十六日です。

問 あなたが供述をはじめる前に、聞かされたんですか。

答 はいそうです

問 弟さんもそのときに出ていることを知つてませんでしたか

答 一縮に社長も弟さんも出たということをそのとき聞されました。

問 社長や弟が言うように、あんたも、しやべつてしまえば、すぐ出してやる、というようなことを言われたんですか

答 はいそうです。

釈放をめぐつて検察官の露骨な利益誘導が行われたことは、右証言によつて、まことに瀝然としているではないか。このような釈放という好餌と引きかえになされた供述には、供述者の不真正な意思が媒介しているから、俄かに措信できず、供述の信憑性を疑うべき重大な事情あり、といわねばならない。

(ハ) 威迫手段も併用された

薗田和江に対する取調べには、単に他人の自供書の読み聞かせや、利益誘導策にとどまらず、心理的威迫手段も併用された。偽証罪の告知による刑罰の威嚇がそれである。

問 (検事) 実際のことをいわれた方が、社長の利益にもなるんじやないですか

答 社長の調書なんか読んで聞かしていただきまして、そういうようなところは二度三度も読みかえしてくださいましてね。このように同じことを言わなければ、一人だけちがつたことを言つていると偽証罪になるから、いつまでも出られないからということをつよく言われまして、社長なんかがそういうことを言つているんだつたら、同じように言つてしまえば、という気もちになりました。

問 (弁護人) 最後の検事調べのときに一人だけ違つたことを言うと偽証罪になると言われたというんですが、それ以外に脱税関係では罪が重いんだからということを言われたことはないんですか

答 いいえ、脱税関係より、偽証罪のほうが罪が重いからということを言われました。(薗田証言)これは明白な威迫といえよう。

山同証人はこの点を全面的に否定し、その根拠として次の二点をあげる。ひとつは本件では本人が被告人となる場合がある事件だから、、、、偽証云云で脅かすということは考えられぬ。第二はこの証人は二十才過ぎたばかりで偽証とか、なんとか言つてもわかるような人ではない――と。

しかし右の二点はいずれも次の理由から全然根拠のない詭弁であつて取調べに当つて前記の威迫文言が施用されなかつた、とするなんらの弁解となりうるものではない。

けだし、薗田は当時、共犯=被疑者としての地位を有していたことは事実としても、事案の実質は、法人税申告義務主体である両会社又は西村社長との関係における参考人としての役割が濃厚であつて、取調べの発展段階でも、既に現金管理者については法人税ほ脱の犯意の認めがたいことが判明していた(被告人李の「自供」調書、李漢成の検面調書)のであるから、かような実質は証人としての立場にある薗田に対し、否認の態度を非難する言辞として、「偽証罪」云々を告げることは、捜査官の手口としては、むしろありうることである。

また、薗田の年令が二十才を過ぎたばかりの若年であつたとしても、この故に、偽証の意味を通俗的にも全く理解できぬものでなく、むしろ、理解できぬとする見解こそ、不当な偏見と予断に出るものである。

なるほど偽証の法律的意義は、わからないとしても、ウソをいうと処罰される、ぐらいの意味は三才の童子をのぞけば、誰でも語感を通じて感覚的に理解できるものである。

むしろ、刑事実務上の習俗観念からすれば、捜査官は被疑者的地位にいる者に対し、その者が内容を理解しようとしまいと「偽証」という文言を突きつけることによつてある種の威嚇的効果なり、反応なりを期待するのが常道である。

本件では取調官が「脱税の罪よりは偽証の罪の方が重い」と威迫した事実はさらに次の事情を考慮するとき、否定しがたいものとなる。

すなわち、学歴も中卒程度の薗田が、当時、法律的知識について、全く無知にひとしい状態であつたことは、略争いないところである。その薗田が「偽証」とかの用語や「脱税の罪より偽証の罪の方が重い」ということを知り得る筈がない。

知り得る余地のない法律用語や法律的知識が、ほかならぬ薗田の法廷供述によつて表白されたことは他に特段の事情もない本件においてはむしろ、取調べにあたつて薗田が捜査官から告げられ、教えられた、とみるのが最も自然であろう。

おそらく生れてはじめて刑務所の未決監に収容され、検事の取調べを受ける身となつた薗田にとつて真意に反し虚偽の供述をせざるを得なくなつた、ひとつの要因としての“偽証云々”の脅し文句は、二十余年の生涯の裡でも、最も屈辱的な語感として、多感な若い子女-薗田の耳にひびき、頭脳に刻印されたにちがいない。

薗田の法廷供述は、そのことを雄弁に物語つている

山同証言の虚偽性は明白ではあるまいか。

(ニ) 供述の報酬、対価としての「即時釈放」

薗田の検面調書が以上のあれこれの手口による利害誘導、威迫の結果として、不正に出来上つたものであることは、調書の作成直後、即時、同女を釈放したという扱いによつてさらに補強された。

尤も山同証人はこの点についても「おそらく、その場で釈放するとか、特別に帰してやつたことはないと思う、その日に午後から四時頃まで調べがかかつている。五時頃、釈放を指揮したと思う」旨述べ「特別待遇」を否定している。

しかし、薗田証言は供述とひきかえに「特別待遇」がなされた経過を具体的に説明している。

問 (弁護人) 釈放された日に、そういうことを(註売上げを落す)初めて検事に申し述べて、そしたら釈放されたんですか。

答 そうです。それを言えば、すぐ出してあげますということで、そういうことをいろいろ書いて、署名、印を押してすぐ弁護士さんに連絡をとりますと言つて電話をかけてくれました。

問 刑務所出たのは何時頃なの

答 それからすぐ刑務所に帰りました。そのときはもう迎えの人がきていました。

問 検察庁から刑務所の方に帰つたのは何時ごろですか

答 取調べがはじまつたのは昼食のあとでした。

問 取調べが済んで調書ができたのはいつ頃ですか

答 その時間はわかりませんけれども、刑務所を出たのは三時ぐらいだつたと思います。

これらの証言からもわかるように、供述後の即時釈放は瀝然としており、不正な誘導供述の対価としての釈放であつたことを物語つている。

(ホ) 検事の創作附加した供述動機の記載

薗田の検事調書には、従来、否認の態度を維持していた理由とか、供述するに当つての希望とかが記載されている。たとえば「私はこれまで韮崎に住んでいる私の姉の薗田福子に迷惑がかかつてはいけないと思い、本当のことをかくしていましたが、ここに正直に本当のことを申上げます。」とか、また、「これも私の口から出た事と知ると、やはり姉に迷惑がかかるので、なるべく西村社長に判らぬ様にお願いいたします)「以上いずれも調書第一項)とか、さらに、「尚、重ねて申上げますが、西村社長には是非内緒にしておいて下さい。」とあるのが、それである。

これらの供述記載が、薗田の真意にもとずいて自発的に供述がなされたものとみることはできない。

尤も山同証人は、右供述記載は薗田の方から進んでなされ、述べたから信用性がある――供述全般についても――と一審証言で述べているが、この点は以下に論証するように、捜査官検事の完全なつくりごとであつて、調書全般の信憑性を根抵から崩すに足りる。まず、右供述記載が、どのような経過事情のなかで、できあがつたかを、薗田証言によつて解明してみると

問 (検察官) あなたのその当時、調書によりますと、姉の薗田福子に迷惑がかかつてはいけないということで、ほんとうのことを隠したと、こういう前置きがあつて、それから述べておられるようなんですけれども、しかも私の口から出たとわかると姉に迷惑がかかる、なるべく西村社長にはわからないように、お願いします。と、最初に書いてあるんですけれども、また最後にはそういうことが書いてあるようですけれども、なお重ねて申しますが、西村社長にはぜひ内緒にしておいてくだださいということも書いてあるんですがね

答 確かそのときには検事さんの方でそういうことを、言われました。

問 何を言われたんですか

答 今まで

問 ぼくが聞いておるのは、あなたがそう言つておるから、何もそれなら、西村社長にわからないように、ということをお話する必要がないように思うんですがね

答 確か私から言つたんじやない検事さんのほうから、そうじやないだろうか、と言つて書いてくださつたと思います。

問 それじや、なぜ、あなたは違います、と言わなかつたんですか

答 そのときはもう何か、否定するような気持ちより早く出たいという気持の方が先でした。

以上引用した証言だけをみても、問題の供述記載は取調べ検事の方から一万的に推測した内容を、あたかも薗田本人自身の口から表白されたものであるかのように装い本人の供述として組立てたことが認められる。取調べ検事は二〇日間も薗田が黙して語らず、あるいは供述を拒んでいたのに、突如、(迎合的であれ)態度を一変し、供述調書を作成することができることになつた段階で、従来の否認動機、今回供述の動機等を、どのように構成すべきかについて迷い苦慮したものとみられる。しかし、単純皮相にも検事は薗田和江の姉福子が西村と一定の関係を有した旨の西村の供述(四月一日、四月八日付国税査察官の質問てん末書、四月十二日付検面調書)から心証をとつて、薗田和江の否認の動機に結びつける詐術を着想した。

薗田福子のことは右引用の資料によると、日本相互銀行韮崎支店に西村が仮空名義の普通預金があつたたとされ、その資金の出所を追及された際の西村の供述として「私が監査役であり韮崎の金の玉遊戯場の社長である薗田福子から個人的に面倒みた金を三十万-四十万位もらつたことがある」という程度のものであるが、あくまで否認の動機の合理的仮装を狙つていた検事は西村供述から出てまた右の関係に着目し、かつ好奇な素材として和江が福子の姉であるという身分関係と機微な心情を最大限利用し「自分がしやべれば姉の方に捜査の手が伸び姉が迷惑するから、また、西村社長の利益に反するし自分の立場がないであろう」というふうに検事は尤もらしい“想定”で、これを薗田自身の否認の動機として供述させる、またしたことにする、という手法が、じつはまえがき供述部分のほんとうに作成された真相なのである。すでに社長も李漢成も、自白し供述したとして調書を読み聞かされ、それと同じまたそれに照応ずる供述をすれば、すぐ釈放する。しなければいつ出られるかわからない――という強い利害誘導にさらされた薗田和江であつてみれば、検事の設定した前記否認の動機は内心全く意外であり、真実に反するのであるが、もはや迎合供述によつてでも一刻も早く身柄の自由を乞いねがう心理にたちいたつたことは当然すぎる程当然なまた不可抗力な屈伏といわざるを得ないであろう。これらのことを右に引用した薗田の証言はかなり明快に物語つている。だが――冷静にかつ客観的に事態を凝視すれば、検事の想定し、調書のなかに設定した右の供述動機の記載は、不合理かつ奇妙であり、常識的にも不自然で矛盾もある、ということに気ずくのは、多少でも本件の事情に通じた人ならば、さまで困難ではなく時間もかからない。

果せる哉、一審公判に立会つた検察官(捜査検事ではない)さえも、この供述動機の記載に当然の疑問をもつたのであろう、執拗なまでに供述記載の経過について、薗田証人に質問をあびせかけたのである。

問 しかし、薗田福子という人は甲府のパチンコ屋に関係ないということを、認識しているんだからね。別に迷惑がかかるとか、かからないということはない筈ですね。あなたの気持の上において。

答 当時そこまで考える余裕はなかつたと思います。

問 あとになつて、これを述べた真実を否定する理由として、言うんじやないんですか。

答 いいえ、そういうことはありません。

問 それだけだと、なるほどと、あなたの言われたことを納得するにちよつとひつかかるので、

尋ねするんですが

答 、、、、、確か、そのときは山同検事ですか、その方が、社長やら、一夫さんが言つてるようなことを言えば、すぐ出してあげるからということで、じや、そうしましようと言つたときに、理由として、今まで黙つていたのは、こういう理由ではないかということで、言つてくれたんだと思います。

事態はきわめて明白である。

利益誘導と迎合供述による取引の結果として、できあがつたのである。薗田は供述者である自己の従来、否認していた動機を、自主的、自発的に申し述べたのではなくて、逆に取調べ検事から「教えられた」のである。その「教えられた」否認の動機について、薗田は迎合し、「はい、そのとおりです」と応答したか、もしくは首をタテに振つて応諾の意を表明したか、いずれにしても、右の供述記載が、検事の単純皮相な想定にもとずく独断的創作に出るものであつて、薗田の真意ではなく、かかる検察官供述調書に信用性を認めることは到底、許されないところである。

この点をなお、若干論証すれば、

第一に、公判立会検察官さえも疑念を表明したように、事件は甲府における被告人李の経営する店舗の法人税ほ脱が追及されているわけで、薗田和江が甲府の店のことをしやべつたからとて、韮崎の薗田福子の経営する店に具体的関係も、影響ももたらすものではない。

したがつて「姉に迷惑がかかる」おそれはない。

第二に、西村と薗田福子の関係については、西村の供述で「前に個人的面倒を見た関係での金をもらつた」と言つているだけであつて、具体的にはどのような関係かについて他になんらの証拠資料はなく薗田証人自身、検察官から問われて、西村と姉福子が、実懇の間柄であつたか否かについて、よく知らない、と答えている。姉、妹の身分はもつていても長く離ればなれに別居して生活し相互に往来していた形跡もみられない関係にあつたと考えられるから姉への迷惑なるものの存在や合理性はきわめて疑わしいのである。

第三に、西村社長に内緒にしておいてくれ、との供述記載がいかに不合理なことであるか、薗田が真実に反して虚偽の供述をせざるを得ないように仕向けられたのも、ほかならね社長の自供調書であつたし(前述)、社長の自供調書から「教えられて」売上げを抜いた、との供述がはじめて可能であつたのであるから、何も社長に内緒にしてもらわなくとも、少しも供述者薗田の立場は不利益や苦しい立場に追いこまれることはない。とすれば、社長に内緒になどということ自体、著しい矛盾がある。だから弁護人はこの点を反対尋問によつて、いつそう明確にしたのである。

問 三八年四月一六日の供述調書には一番最初に私がこれからしやべることは西村社長にわからぬようにしてくれと書いてありますね。

答 はい

問 先程来、あなたの話の筋からいうと西村社長の調書から教えられたことを、西村社長に言つてくれるな、ということは、まことに筋の通らない話なんですが、もう少し説明はないですか

答 私はそこまで言つたわけではないんですが、検事さんの方で最後に西村社長の言つているとおりでしようと言つたときに、じや、今まで黙つていたのは、こういうわけだろうということで、こういうふうに書いておいてあげますからと言つて書いたように思います。

右問題の供述記載が取調べのどのような段階でできたかについて、裁判長も当然の疑問を表明した。

問 今まで黙つていたのは、理由はこうなんだねというのは、その調書を作る前かね、あとかね検察官の方で、こういう理由かと言つたから、はいと言つたというんだね

答 はい、大体ひととおり聞かれまして、改めて調書書き出す前に言われたと思います。

弁護人は以上、労をいとわず、証言を長く引用したが、これはもとより事実を厳正克明に把握し、珠玉の真実が一体、どちら側にあるかを空明するがためにほかならない。

ひつきよう、従来の否認の動機に関する一連の供述記載は、すでに幾度もくりかえし強調したようにそれが薗田和江の任意かつ真正な供述として表明されたものではなく、取調検事の、愚かな、押しつけ的なつくりごとであつたことが、疑問の余地のないまでに明らかになつたとおもう。薗田の証言の語尾が、「思います」という具合になつているのは、三年も前のときの取調べをうけたときの経過事情をそぞろ想起しつつたんたんとして表白しているむしろ証人の謙虚な性格や人柄を示す。

かようにして薗田の検察官面前調書の、否認動機の説明に関する一連の記載は、薗田証人の法廷供述との対照吟味に於て、到底、措信できないことが明らかになつた。

この事実は薗田の検面調書全体の信憑性を評価するにあたつて重大かつ決定的意味をもつ。

けだし薗田が否認していた動機の説明に関する供述記載が取調べ検事において、薗田の供述調書の信用力を確保し、供述の信憑性を高め、仮装しようとの不正な意図で真実に反し作出されたことが顕著であるから、それはおのずと、供述調書の他の部分、とくに売上げ除外行為に関する供述記載の信憑性に疑いを投げかけ、ひいてはその全面的否定をもたらすものである。なぜなら、ことさら虚偽の否認動機の供述を録取したゆえんのものは、供述調書の重要な部分の虚構を真正な供述であるかのようにみせかけ保持するための作為的目的に出たものであることは明らかであるからである。

しかしこの点については、のちに薗田の検面調書の非真実性として論ずることにしよう。

(ヘ) 防禦の機会も与えられず

一審検察官は、薗田は弁護人との面会の機会を与えられていたのだから虚偽の供述をしなくとも防禦できたはずだ、と強弁している。

しかし、これは実態を知らない検察官の形式的ヘリクツというものである。なるほど、薗田に弁護人が接見したことはあるが、それは三月二八日に逮捕されて一〇日目の四月六日に一回のみであつた。しかも未だ本格的調べに入らない前の時期のことであつた(薗田証言)

検察官は、それならいつでも弁護人に連絡をとつて接見すればよかつたのではないか、と法廷でたたみかけたが、薗田証人はこれに対して次のように答えている。

「いつまでも弁護人に言えば会えるということはわかりませんでした」

「弁護士さんを頼んだことは、私は知らなかつたんです」

「(その弁護士の)名前ははつきりしません。ウツノミヤ確かきいた記憶はあるんですけれど」

問 で、もちろんあなたは選任してもらつて名前を書いたんでしよう

答 当時だいぶ気が転倒していましたからあまりよく覚えておりません

みられるとおり、薗田に対する弁護活動は特記すべき内容はなく、実質的防禦は殆んどなされなかつたといつてもよい。このことは非力な女性でさえも――弁護士の援助をかりないで――真実を守るために二〇日間も否認の態度を貫きとおしたこととの関係において、正当に評価されねばならない。すなわち、適時に弁護人と面会して充分な防禦をする知識を欠いていた薗田にして、実に叙上指摘の如き勇気ある抵抗に出たことは、薗田証人の素朴で強じんな正義観念(不正な力とたやすく妥協しない高潔な精神)と誠実な人格を実証するものである。

(二) 薗田和江の検察官供述調書の非真実性

(1) 真偽混合の供述調書

弁護人はさきに供述動機に関する供述記載の虚偽性は必然的に調書全体の供述記載の信憑性を崩壊させるものである、と主張したが、しかし調書全体の信用性を仮装するテクニツクとしては、被疑事実の重要ならざる部分、間接事実や背景的状況のある部分についてはとくに虚構をまじえないありのままの事実をも供述記載にふくめるのを常道とする。本件においても、薗田の店員としての勤務歴、職務内容(調書二項)再入社時の勤務内容(同第三項)、売上金の回収と社長の来店状況(同第四項前段)、仕入れについての状況、記帳(但し「社長がみて売上高をきめ」とある部分をのぞく(同第七項)、会社の日常の支出、給料の支払(同第八項)、店舗の経営、社長の資産状況、納税状況(同第九項)等については、おおむねありのままの事実が記載されている。問題は売上げ除外行為に関する供述部分(同第四項後段、五項、六項)が虚偽の内容であり、検事の押しつけと創作に成る部分ということができる。

これは被疑事実の重要な中心部分をなす。

(2) 被告人調書の焼写し“売上げ除外供述”

(イ) 除外の方法、手段をめぐる創作供述

薗田の検面調書の核心をなす“売上げ除外行為”に関する供述部分が薗田の固有の体験からの自発的な事実の表白ではなく、検察官がすでに入手していた被告人李の「自供」調書の関係部分からの焼直しであり、ひきうつしであることは同調書との対照吟味において、まことに明瞭である。すなわち、売上げ除外行為に関する虚偽自白が当初、検察官になされたのは、三月三十一日であるが、その際、作成された調書のなかで、

「このような金は(注裏預金、不動産買入資金)店の売上げの中から、私が自分で現金を抜いてしまい其の残りを帳簿に記入する訳けであります。私は毎日のように夜行つて両方の店の売上げの現金を抜いておりました」(第四項)

旨の供述部分

次で被告人李の「自供」調書四月三日付の記載事項のうち

「次に店の売上げを落していた方法についてでありますが、駅前の方も、開店後に私が行き弟や薗田和江が売上げを計算して居るとき、現金を抜いて、会社の帳簿に計上しない、という方法を用いていたのでありますが、(中略)私も八割ということを頭に置いてその日の景品の出を計算し、これに二割位の利益を見て売上げを出しその超過分は売上げから落しておりました。弟の一夫や薗田和江は売上げを計算するのですから、私がこのような方法で売上げを落して居たことは知つています。私は出来る丈、毎日店に行つて、売上げを落した金を自宅に持つて帰つて居りましたが、私が店に行けない時には、一夫や薗田和江から、その日の景品の出の報告を受け、それを聞いて、八割位の割数になる様に売上高を指示して記帳させ、売上げを落した分はその儘、紙や、封筒に包んで、別にさせて置き、私が翌日取りに行つて居りました」(第四項)

旨の供述部分――右引用のこれら二つの供述調書の供述記載が、台本となつて薗田の前記、検面調書の売上除外行為の供述記載となつたことは、各供述部分の表現方法、趣旨にてらしても明らかである。

薗田の検面調書の売上げ除外供述(第四項後段部分)は、要するに

(イ) 社長が景品の出をみて売上高をきめる

(ロ) 右売上高をこえる超過分は売上げとせず社長個人のものとする。

(ハ) 社長が店に行かぬときの処理の仕方-景品の出を報告、売上額を指示して抜く

(ニ) 超過分、金庫に保管、翌日とりにゆく

という筋書で構成されている。

これらはすべて、右引用の被告人李の「自供」調書のなかで述べられていることを検察官が薗田の立場にうつしかえて、適宜供述記載したものと考えられる。

そのことはほかならぬ検察官の薗田証人にたいする主尋問によつて明証された。

問 社長さんがきて、景品の出具合を見ることがあります

答 それはありました

問 その出具合を見てから記入する売上高、現金いくらとか、それを今度は決めてゆくという方法はありませんでしたか

答 そういうことはありませんでした

問 あなたが約三年ほど前にその方法について検察庁で山同検事に話したことがあるんですか

答 いろいろお取調べを受けました。

問 そのときのあなたの話だと、社長がきて景品の出を見る、そして社長が記入すべき売上高を決めると言つておられるんですが、そういうふうな方法をとつておられたんじゃないんでしようか

答 そういうことはありませんでした

問 一番最初、数えていただいたというのが、売上げがたとえば五万なら四万八千円とか四万五千にするとかいうような方法で記帳するというよう具体的なやり方ですよ

答 そういうことはありませんでした。

問 そういう事実もなかつたんですか

答 はい

問 社長から電話がかかつてきたということは

答 社長から電話がかかつてきたことはありました

問 そのときには売上高を報告するんですか

答 すごく、ほんとうにこのままだといつまでも出られないじやないかと思いまして、じゃ社長も言つているとおりだろう、と言いましたところ、検事さんのほうが、いろいろではこういうことですかということで、はいそうですと返事してそういう供述書ができたんだと思います

みられるとおり、売上げ除外に関する薗田の供述なるものは、実は検事によつて「つくられた」創作的記述であることが、たやすく理解されるのである。

薗田の証言中、検事の「社長がきてこういうふうにしろと言つて個々に指示したことがありましたか」との質問に対し「やり方は一番最初に教えていただきました」との応答があるが、これは、現金管理者に就任直後、日常の正常な処理の仕方を社長から教えられた、との意味であつて、いわゆる売上げ除外のやり方について「教えられた」意味でないことは、証言全体を通じて一見明瞭といえよう。

(ロ) 除外の額についての台本

薗田の検面調書のなかで、売上額と除外額についての供述として

「日によつて四〇万、五〇万近く売上げのあつた日もあり、この様なときは拾万円位抜いて二〇万、三〇万円の売上げにしていました」

旨の記載があるが、これは被告人李の四月一日付国税査察官質問てん末書

問三 一日にどの位売上を除外していましたか

答(前略) 多い時は十万円以上位も売上げを抜いた日もあります

という台本に符合して、薗田の調書に検察官がとり入れたものであることが窺われる。ちなみに「抜く金額が一〇万円の日もある」などというくだりは李漢成の検面調書にも全く同様の文言があり、薗田が李漢成調書をも読み聞かされて供述することになつた経緯を考えると、一〇万円云々は、結局、被告人李調書に端を発する不実の迎合的供述記載であることのカラクリを示している。一方、売上げ額の算定自体は、いわゆる統計表を逆算しての国税査察官の一方的に推断した夢のような数字を検察官もそのまま予断と偏見をもつて盲信し、これを薗田に押しつけ、供述記載としたものであることは、前掲、被告人李の四月一日付、質問てん末書の記載との関連においてよみとることができるのである。

薗田証人もそれが供述調書に記載された経過について検事の質問に答え

問 どうしてそんなに違つてるようなことをお話になつたんですか

答 確かあれは統計表から割出した金額がそのようになるから、そうじやないか、といわれました

問 それで

答 それでかなりしつこく言われたもんですから、じやそうでしようという返事をしました。

問 統計表はどうだか知らないけれども、あなたが実際に取扱つたというんなら、ちやんと言えるじやないんですか

答 でもあのときの空気では相当こうでしようというふうに、かぶせるように言われていたものですから、そのままでそのとおりになつてしまつたんだと思います。

と真実に反した迎合的供述を余儀なくされた経過を卒直に表白している。

そして統計表によつて売上げ額を逆算することの不可能であること、それが統計表の本来の趣旨と役割にも完全に背反する非科学的不合理な数字であることは、李漢成の昭和三八年三月一八日付質問てん末調書と同人の法廷供述、薗田和江の右同時期、質問てん末書等の記載を総合し、あきらかであるからこの点はさきに被告人李の虚偽自白論において述べたところを援用する。

その他、薗田の検面調書には「逆に売上げが少ない時には翌日、社長が金を持つて来たりしていた事もあります」旨の供述記載がある(第六項)が、これも被告人李の四月三日付検面調書中の記載「利益のない時は電話で報告を受け、翌日、私が届けるようにしておりました。中略、利益のない場合は補填するために常に二、三拾万の現金を自分のポケツトに入れて持つて居りました(四項末尾)」旨の供述に依拠しこれに取材し、これを薗田の地位と立場にふさわしい表現で盛り込んだものであり、薗田の真正な供述とは到底みられず、その客観的妥当性を欠く。

要するに売上げ除外に関する薗田の検面調書の供述記載には、それが薗田のみが固有の体験として知り得た独自な事実の認識や、薗田の供述によつてはじめて未解明の事実が判明したというような供述を信用すべき特段の情況は全くみられないばかりでなく、逆に先行的に虚構の自供ないしは供述を強いられた他人(被告人李と李漢成)の不実の供述内容を模写した疑いがきわめて濃厚である以上、該調書の信憑性は強く否定されなくてはならない。

(3) 支離滅裂な売上げ除外額の説明供述

李漢成、薗田和江の各検面調書が、いかに真実とは程遠い内容のものが多く、かつまた供述相互の間において、矛盾と混乱にみちているかは、さらに売上げを抜いたとする額の説明において、きわまつている。李漢調書では、抜くときは、一万円、二万円を万単位に抜きそれ以下の端数は売上げとして帳簿に記載する、とあるが、他方、薗田の検面調書に於ては、抜くときは必ずしも、一万円単位ということはなく、数千円抜くという場合もあつた、という具合である。会社の店舗がちがつても同一経営者の抜き方としてこの相違は奇妙かつ不自然、不合理であろう。両者が符合しないのは、抜いたこと自体の不存在をむしろ逆に推認させるものといえよう。

ちなみに薗田の前記供述部分については、被告人李の三月三十一日付「自供」調書中の「落す時は七、八千円から弐万円位の間で云々ヽヽヽ」という供述記載(第四項末尾)に依拠し、これに符合させたものであることは、既に検察官の手口として屡々論証してきた点にてらし明らかである。

三、李漢成、薗田和江の法廷証言の信憑性

(一) 現金管理業務は適正に行われていた

被告人李の経営する店舗の現金管理者であつた李漢成ならびに薗田和江は一審公判廷に於て、日常の現金管理業務の過程に於て、いわゆる売上除外等の行為がなされる余地がなく、また、たやすくそれができないようになつており、事実、さような不正手段が施用されたことはなく、売上げた現金が適正に管理され記帳も事実に即して行われていたことを明確に証言している。

これを段階的に要約すれば

(1) 現金は毎日一回、閉店後、各売場ごとに売上げたものを未計算のまま現金管理者のもとに回収する。

(2) そして各売場分ごとに、計算し、現金管理者がメーターの数字と売上げ額を点検し、照合する。

(3) こうして右両者は殆んど一致していることを確認し、各売場毎の合算額を集計して、その日のトータルを出す。

(4) 売上額の合計額を記帳したうえ、金庫に保管する

(5) 翌日、売上額として記帳した金額を甲府信用金庫へ預け入れる。

(6) 金庫への受渡しは現金管理者によつて行われ、売上金額として記帳した金額と金庫への収納した金額は毎日、一致していることを確認した。

という順序で、売上金の回収過程から、金庫への収納過程に於て、売上げ除外をする余地のない適正な管理が行われ、かつそれが日常的な現金管理業務の実態であつた。

そのことは、売上金の回収過程について、証人古屋たか子、同三井京子の各証言によつて裏付けられている。

また、何よりも右の適正な現金管理業務が行われていたことを示すものとして、李漢成、薗田和江の三月一八日付、質問てん末調書の各記載がありこれにてらせば、右同人等の法廷証言にこそ事案の真相が如実に顕出され、検面調書の虚偽性を暴露しかつ、これにまさる信憑性を有することが認め得られよう。

(二)、「特殊な関係」と証言の優越性

一審検察官は、李漢成、薗田和江の両証言は「被告人らとの特殊な関係から、ことさら、被告人らの主張、弁解に符合させている」と非難、攻撃を加えた。

原判決もそのことを明言してはいないが、結果的には検察官の主張を支持して両証言の調書にまさる証明力を否定した。

しかし、両証言の調書にまさる証明力を排斥した原判決は、一審検事の主張と共に、根本的な誤りであり、採証法則違反の認識、判断といわなくてはならない。たとえば、現金管理が日常、売上げ金を除外することなく、ありのままの収益を記帳し、保管し、収納していたこと、統計表が機械調整のため大量観察の参考資料としての意義を有するに過ぎず、売上げ額算定の概算的資料にもならず、いな、むしろさように利用することは、不正確な測定を結果する誤りであること等についてはじつは、本件が強制捜査の対象とされる以前から、現金管理者である李漢成や薗田和江によつて、事実の真相がありのままに査察官に語られていたのである(三月十八日付右両名の質問てん末書参照)。

それゆえ、両証人の証言は「ことさら、被告人らの主張、弁解に符合させた」ものでないことは、多少でも記録を真面目に検討した人であれば、たやすくわかることである。

また、被告人らと両証人との「特殊な関係」のゆえに証言の信憑性が厳密な検討を要することは、一般論としてはともかく、具体的条件のもとに於ては、決して両証言の信用性を減殺し、否定するが如き評価は許されず、誤りであるといわねばならない。けだし「特殊な関係」の故に信憑性を否定するが如きは、採証法則違反も甚しい暴論というべきであろう。問題はその証言や供述自体に即して具体的に内容を吟味、検討しその証拠価値が決せらるべきである。

ところが一審検察官は、李漢成が被告人李の実弟という身分を有していること、薗田が、かつて被告人李の経営する店舗の被傭者であつた、ということから「特殊な関係」を有していた、ということを主張するにとどまり両証言内容の具体的な点による不信用性については、なんら論証するところがない。

弁護人はこの点については、既に各項目において、具体的不信用性の理由がないことを論証し、かつその信憑性は一定の身分、地位があつたことによる一般的不信用性を払拭するに足りるものがあることを随所に明らかにしてきた。

この意味で李漢成、薗田の証言の真実性は、それが客観的事実ならびに論理と符合し、ほぼ確実な裏付証拠が存在していることとの関係において、高く評価さるべきであると確信する次第である。

第五、補強証拠の不存在と判示事実の崩壊

一、原判決は「罪となるべき事実」の認定において、判示冒頭で、被告人李聖凡が、「法人税を免れる目的をもつて売上の一部を簿外にする等の不正手段」があつたとし、第一から第四にわたる四つのほ脱犯罪があつた、としている。

そのうち、判示第一の事実は、昭和三四年九月一日より同三五年八月三一日までの事業年度についての栄大商事にかんするものであり、判示第二の事実は、それにつづく、同三五年九月一日から、同三六年八月三一日までの事業年度にかかる栄大商事にかんするものである。また、判示第四の事実は同三七年一月二七日より、同年八月三十一日までの事業年度における大栄興業にかんするものである。

二、ところで、原判決が右判示事実全部についての証拠として挙示する被告人李の大蔵事務官に対する各質問てん末書、および検察官に対する各供述調書の記載によれば、いずれも判示事業全部にわたつての「自白」を内容としている。それは法人税法におけるほ脱犯罪の構成要件である「ほ脱の目的」と「ほ脱の手段・方法」の両面にわたつている。ところで、「ほ脱の目的」の認定については、被告人李の自白によつて適法に認定できるとしてて、いわゆる売上除外行為を内容とする「ほ脱の手段方法」の認定については、補強証拠を要するところ、その要も重要な資料として原判決の挙示するのは、李漢成及び薗田和江の検察官に対する各供述調書である。

もし、右供述調書のいずれもが、ほ脱行為があつたとする昭和三四年九月一日以降のすべての事業年度期間にわたつていわゆる「売上の一部を簿外にする等の不正手段」が施用されたことを自認し、供述しているのであれば、判示事実の認定は一応、適法かつ充分な補強証拠にもとづく認定といえるであろう。またもし、補強証拠である二つの検察官供述調書の供述記載において、判示事実の何れかの事業年度については「売上の一部を除外する等の不正手段」の事実が供述を欠くときは、他にそれをカバーする相応の補強証拠がない限り、当該年度分にかんする判示事実は、補強証拠を欠くからしたがつて「罪となるべき事実」の認定は許されないわけである。これが事実認定の当然の法則であり、帰結である。

三、ところで、原判決に於て冒頭事実である「売上の一部を簿外にする等の不正手段」が存在するとして、その補強証拠として位置ずけられた前記二つの供述調書(李漢成および薗田和江)を仔細に検討すると、右供述者らが被告会社に於て、現金管理業務に就き、いわゆる売上除外行為に加担したとする時期について、判示事実との関係で重要な相違があることが明らかである。

すなわち、薗田和江が栄大商事の前身である西村商事に再入社し、現金管理の事務を担任することになつたのは、昭和三六年一〇月のことである(検面調書三項)。また、李漢成が、大栄興業の経営に成る店舗の現金管理事務を担任するようになつたのは、昭和三七年七月頃のことである(検面調書三項)。

したがつて、仮りに右両名の検面調書の供述記載が真正になされ、措信しうるとの見解にたつたとしても、右供述調書を、公訴犯罪事実の補強証拠として有罪認定(いわゆる不正手段の存在)の基礎又は資料として証明力を認めることができるのは、栄大商事にあつては、昭和三六年一〇月以後の事業に関してであり、大栄興業については、同三七年七月以降の事業についてである。なぜなら、右両名が未だ現金管理業務に就かない以前の、これが「ヽヽヽ不正手段」の存否については、客観的にも主観的にも供述することが不可能であり、証拠価値はないからである。

しかるに原判決は、この点について、以上の補強証拠を欠く判示第一および判示第二、第四の事実についても「売上の一部を簿外にする等の不正手段」があつたとして「罪となるべき事実」を認定している。

しかし、これは存在せざる補強証拠を存在すると誤認看過してなされた重大な事実の誤りであるから、原判決の右の判示認定事実は、採証法則違反として破棄され無罪の判決がなさるべきである。

四、また、原審に於て、前叙、補強証拠を欠く部分について、例えば薗田、李漢成が現金管理の仕事に就く以前のこれが業務の実態、前任者などの取調べ等による証拠の収集等については、捜査機関に於ても、とくに捜査をした形跡もなく、したがつてもとより原審においても、なんらの取調べが行われなかつたことは一件記録上、明白なところである。

そうだとすれば、薗田和江や李漢成が現金管理者として就任する以前の事業年度のほ脱を訴追内容とする公訴犯罪事実については、原裁判所は、売上げ除外にかんする補強証拠を欠くこと明らかであるから、積極的に当該部分についての罪となるべき事実の存在を肯認するに当つては、自ら職権で、必要な証拠調べをすべきであつたのである。

それをなんらしないで「売上の一部を簿外にする等の不正手段により」判示第一、第二、第四の各事実の認定をあえて行つたのは審理不尽の違法がある。

原判決は破棄されなくてはならない。

第四点

原判決は、刑の量定が著しく不当であるので破棄されなければならない。

一、原判決は、被告人栄大商事有限会社を、判示第一、第二の罪につきそれぞれ罰金一五〇万円、判示第三の罪につき罰金五〇万円に処し、被告人李聖凡を、徴役八月および判示第一、第二の罪につきそれぞれ罰金五〇万円、判示第三、第四の各罪につき罰金五〇万円に処した。ただし、右懲役刑については裁判確定の日から二年間執行を猶予した。

弁護人は右の刑は重きに過ぎると思料する。その理由は以下述べるとおりである。

二、栄大商事および大栄興業の本件各事業年度における営業の荒利益は二割程度であつて、原判決が判示するような多大な金額の売上を簿外にすることはできなかつた。国税当局や検察官並に原裁判所が、売上を簿外にしたと誤り考える多大な金額は、実際は被告人李の個人資産であつて、その個人資産は被告人李が昭和三三年一〇月二日の栄大商事設立以前から所有していた財産であり、栄大商事設立以後昭和三六年まで李個人のパチンコ機械販売業より取得された個人財産である。

被告人李が栄大商事設立以前に多大な個人的資産を所有しており、右設立以後多大な個人的所得があつたことは、本件において立証されている。問題は、国税当局や検察官が疑い、原判決が判示する、売上を簿外資産によつて形成され取得されたとする預金、土地、建物、有価証券、圧縮記帳等の財産が、前述の被告人李の個人資産によつて形成され取得されたものであることの経路を明らかにする客観的証拠が存在しないことである。これは被告人李が諸々の配慮から、その経路を明らかにすることを欲しないためである。

しかしながら、他の問題は、国税当局や検察官が疑い、原判決が判示する、売上を簿外にしたその簿外資産によつて本件の預金、土地、建物、有価証券、圧縮記帳等の財産が形成され取得されたものであるとの経路を明らかにする客観的証拠も存在しないということである。形式的に証拠らしきものは被告人李と李漢成や薗田和江の質問てん末書と検面調書であるが、それらが真実性も信用性もなく証拠とならないことは既に詳細に述べたところである。国税当局や検察当局が、強大な捜査権限を行使し、人権蹂躙と思われる強制捜査まで行い、その結果得られた証拠が、右のありさまである。所詮、本来存在する筈のない証拠は、如何に強大なる権力を行使しても、発見することはできないのである。

原判決の挙示する証拠の多くは、それらの証拠によつて認定できる財産(それは、本件の預金、土地、建物、有価証券、圧縮記帳等の財産である)が客観的に存在していたしまた現に存在することを、明らかにするに過ぎない。それらの財産は、『被告人李の個人資産によつて形成され取得されたもの』か、『両会社の売上を簿外にした簿外資産により形成され取得されたもの』か、自ら物語りはしない。

そこで、国税当局と検察官は、これらの財産は両会社の売上を簿外にした簿外資産によつて形成され取得されたものとの想定により、冒陳添付の修正貸借対照表をデツチ上げ、原判決もこれに追従するのであるが、この想定を裏付ける客観的証拠は存在せず、判決の修正貸借対照表は不合理極まるものであるだけでなく、財産増減法によつて両会社の所得を計算するという法令の適用の誤りがあることは、既に述べたところである。原判決は、「弁護人らの主張に対する判断」二、三において、判示理由の根拠を示し、その四において、本件事実を微細に検討したことを示した心算であるようであるがまことに理由にならないことも既に述べたところである。原裁判所は、本件を無罪にすべきか有罪にすべきか、有罪にするならば有罪の合理的根拠を何れに求むべきかにつき迷い、ついに「疑わしきは被告人の不利益」との態度で判決をなしたものとの印象を受けざるを得ないのである。

しかしながら、前に述べた客観的に存在していたしまた現に存在する財産が、両会社の売上を簿外にしたその簿外資産によつて形成され取得されたということは想定に過ぎないものであり、ところが、両会社には売上を簿外にしたその簿外資産によつて右の財産を形成し取得する程の利益がなく、他方、被告人李には右財産を形成し取得してなお余りある個人資産があつたことが明らかとなつている本件においては、右財産は、両会社の売上を簿外にしたその簿外資産によつて形成され取得されたという客観的、合理的証拠がないものとして、被告人等を無罪とするのが道理であろう。原裁判所にはこの道理が判らないか、この道理に目を向けないので、判決主文の如く重い刑を言渡した。原判決の刑の量定が不当であることは明白である。

三、原審において問題とならず、従つて、被告人等の量刑について完全に無視されたのは、甲府税務署長の栄大商事や大栄興業に対する税に関する更正と所謂行政罰である。これは、甲府税務署長が、両会社の売上を簿外にしたその簿外資産によつて前述の財産が形成され取得されたという想定を、直に事実として、両会社に法人税法上の更正と行政罰としての課税処分をしたものである。

(一) 栄大商事について

(1) 本件で公訴事実となつていない、昭和三三年一〇月二日より同三四年八月三一日までの事業年度について二、三八七、七〇二円(冒陳別表一の当期利益の当期増減額)の所得更正と九三〇、〇八〇円の税額更正があり、二三二、五〇〇円の無申告加算税(二五%)と四六五、〇〇〇円(五〇%)の重加算税が、

(2) 昭和三四年九月一日より同三五年八月三一日までの事業年度について、一五、八五一、三七八円(冒陳別表三の右同)の所得更正と六、五六七、二七〇円の税額更正があり、三、二四六、五〇〇円(五〇%)の重加算税が、

(3) 昭和三五年九月一日より同三六年八月三一日までの事業年度について、一二、五五八、〇三一円(冒陳別表七の右同)の所得更正と四、九九七、〇三〇円の税額更正があり、二、四九八、五〇〇円(五〇%)の重加算税が、

(4) 昭和三六年九月一日より同三七年八月三一日までの事業年度について、七、一〇一、一四六円(冒陳別表一一の右同)の所得更正と二、九七〇、六二〇円の税額更正があり、八九一、〇〇〇円(三〇%)の重加算税が

(二) 大栄興業については、昭和三七年一月二七日より同年八月三一日までの事業年度につき、三、三四四、九〇五円(冒陳別表一五の右同)の所得更正と一、二九六、〇七〇円の税額更正があり、三八八、八〇〇円(三〇%)の重加税が

賦課課税された。栄大商事についての、更正税額の合計は一五、四六五、〇〇〇円であり、無申告加算税と重加算税の合計は七、三三三、五〇〇円であり、それらの総計は二二、七九八、五〇〇円である。大栄興業の更正税額と重加算税額の合計は一、六八四、八七〇円である。右総合計は二四、四八三、三七〇円である。

四、両会社に対する課税は右だけでないのであつて、法人所得の更正に応じて、地方税である県民税、事業税がそれぞれ更正され、事業税については行政罰が課せられた。

(一) 栄大商事について。

(1) 昭和三四年八月三一日で終る事業年度については、県民税が五〇、二二〇円、市民税が九〇、二二〇円、事業税が二七六、八七〇円であり、右事業税についての不申告加算金が六九、二〇〇円(二五%)重加算金が

一三八、四〇〇円(五〇%)である。

(2) 昭和三五年八月三一日に終る事業年度については、県民税が三五四、六三〇円、市民税が六三七、〇三〇円、事業税が一、八六、五、七六〇円であり、右事業税についての不申告加算金が一八六、五七〇円(一〇%)重加算金が九三二、八五〇円(五〇%)である。

(3) 昭和三六年八月三一日に終る事業年度については、県民税が二六九、八四〇円、市民税が四八四、七一〇円、事業税が一、四五五、六一〇円であり、右事業税についての不申告加算金が一四五、五六〇円(一〇%)重加算金が七二七、八〇〇円(五〇%)である。

(4) 昭和三七年八月三一日に終る事業年度については、県民税が一六〇、四一〇円、市民税が二八八、一五〇円、事業税が八四五、九一〇円であり、右事業税についての重加算金が四三七、九五〇円(五〇%)である。

(二) 大栄興業に対する事業税は三四五、四三〇円であり、これについての重加算金は一七二、七〇〇円(五〇%)である。

栄大商事に対する右県民税の合計は八三、五、一〇〇円、右市民税の合計は一、五〇〇、一一〇円、右事業税の合計は四、四四四、一五〇円であり、右事業税についての不申告加算金と重加算金の合計は二、六三八、三三〇円であり、右の県民税、市民税、事業税についての不申告加算金と重加算金の総計は九、四一七、六九〇円である。これと、大栄興業に対する右事業税三四五、四三〇円とこれについての重加算金一七二、七〇〇円との総合計は九、九三五、八二〇円である。

五、右両会社に対する、法人税の更正額と加算税額、県民税、市民税、事業税の更正額と加算金額の総合計は、三四、四一九、一九〇円である。この金額は、甲府税務署長が、両会社の売上を簿外にしたその簿外資産によつて前述の財産が形成され取得されたという想定を、既に検討したように合理的証拠もなく事実であるとして、両会社に法人所得の更正と法人税額の更正をなしたことにより、税法上の規定から当然に計算される金額である。右更正に対して、両会社は甲府税務署長に対して異議の申立をしたのであるが、現在に至るまで右税務署長は何等の決定をなしていない。それは、両会社の売上を簿外にしたその簿外資産によつて前述の財産が形成され取得されたものであることを合理的に説明できないからと考えられる。右税務署長は、本件の刑事判決が確定するのを待つており、確定した以後においては、既に裁判所により認定確定されたという理由で異議の申立を棄却する(更正と、判決により認定されたところと異るところは、判決の如く変更して)心算なのであろう。これは決して奇言を弄しているのでなく極めて合理的な推察である。

原判決は、被告人等に有罪の判決を言渡すことにより、栄大商事と大栄興業に対して、『総合計三四、四一九、一九〇円(原判決の認定どおりとすればこの金額は多少変更される)の税金を更に納税せしめる結果となるだけでなく、新に栄大商事と被告人李に追討ちをかけて合計五〇〇万円の罰金を支払わせ、場合によつては右被告人に八月の実刑を科することとなるのである。

このように考えると、原判決の刑は重きに過ぎその量定は不当であると言わなければならない。

昭和四二年(う)第一〇四六号

控訴趣意補充書

栄大商事有限会社

外一名

昭和四三年八月二二日

右弁護人 小沢茂

同 上田誠吉

同 平井直行

同 田代博之

東京高等裁判所

第一二刑事部 御中

昭和四二年九月一六日付控訴趣意書第二点を次の如く補充する。

一、 「本来、財産増減法による法人所得金額の推計は、法人税法上の行政処分である決定又は更正をなす場合のみに許されるのである。法人税法上の刑事事件であるほ脱所得金額の算出には、原則的な計算方法である損益計算法が用いらるべきで、財産増減法によつて推計することは許されない。法人税法上の刑事事件において、ほ脱所得金額と税額を財産増減法によつて計算することは、法人税法の規定に基かずして法人所得金額と税額を計算認定する結果」となるのである(第二点七項参照)。この論理は、第二点の一つの重要な結論であり、税に関する刑事上の論理として適確であると、弁護人は確信している。

現に、大阪高等裁判所第六刑事部の法人税法違反被告事件に関する昭和四二年六月一六日の判決は「法人税ほ脱の罪となるべき事実を構成する実際の所得金額を確定するにあたつては、その前提として当該事業年度の総益金および総損金の内容をなす個々の益金又は損金、即ち純資産の増加又は減少の原因となるべき各個の具体的事実を証拠により認定する必要がある。尤も、昭和四〇年法律第三四号による改正前の法人税法第三一条第二項(昭和三七年法律第四五号による改正前の同法第三一条の四第二項)では所得金額の推計を認め、当該法人の財産もしくは債務の増減の状況、収入もしくは支出の状況又は事業の規模により直ちに所得金額を推計できることになつているが、右は課税処分のために認められた便宜的方法たるに止まり、刑事事件においてはかかる推計は許されないと解すべきである。」と判示している。

本件の控訴趣意書を提出する当時は、弁護人は右判決の存在を知らなかつたのであるが、その判決の存在を知るに至つて、右判示が弁護人の控訴趣意第二点と全く同趣旨であることが判明したのである。要するに、原判決が右の大阪高等裁判所の判例と相反することは明白である。

二、 財産増減法により、法人所得を推計することは、行政処分たる決定又は更正(課税処分)においてのみ認められた便宜的方法であつて、法人税法上の刑事事件においては、かかる推計は許されない。法人税法上の刑事事件であるほ脱所得金額の算出は、損益計算法に基き、厳格なる証拠により具体的に認定されなければならない。原判決は、財産増減法により法人所得を推計して認定したのであるから、法律によらずして罪となるべき事実を認定したこととなる。

これは、法令の適用を誤つたのみでなく、法律の規定に基かずして罪となるべき事実を認定したものである。原判決が、罪刑法定主義に違反していることは明白である。

控訴趣意書第二点七項の「租税法律主義の原則に照して違法である」という点は、右の如き趣旨に訂正変更する。

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